Get me high yippie high-ya-baby baby now
「こーらトシ」
言って俺は膝にしがみ付く利春の小さな肩に手をかけて離そうとした。しかし利春は離れず、更に俺の脚を体全体を使って抱きしめてくる。
ひし。
「こんなじゃ飯も食べられないんだぞ? 少しの間で良いから離れてろ」
「やーっ」
「お前の好きなカレー、食べなくていいのか?」
「やーっ」
「だったら離れろって」
「やーもん!」
「…たく」
普段なら「やーもんじゃない」とか言って大久保に預けるのだが、いまの利春を大久保に預けられるのならばとっくに実行している。その大久保はと言えば我が子に嫌われたことへのショックで、こちらへ差し出した手は勿論、顔からは更に血の気が引いていた(大久保は案外ナイーブで傷つきやすいのだ)。
…こんなにまで嫌われてしまったのか、と落ち込む大久保と、「ぱぱいや」と言って決して俺から離れようとしない利春。そして、その二人を慰めなければならない俺は溜め息を吐きながらこの状況を乗り越えてきた。
事の発端は、二日前に遡る。
会議が長引いて八時過ぎに帰ってきた大久保に夕飯を食べさせて風呂に入れてから、俺はおねむになった利春を寝かしつけた。どんなに眠くても「ままもいっしょー」が利春の口癖で、その夜も俺も子供部屋にある利春用のベッドに横にならされたのだ。
絵本を読んだり昔話をしたりするだけで十数分もすれば利春は眠りにつく。夜泣きを繰り返していた頃に比べてこちらの疲労も少ないとあって、子育てなんて気楽なもんだと高をくくっていたのも今思えば悪かったかもしれない。
利春の寝顔を見ながらブランケットを肩までかけてやって部屋から出、大久保の待つ寝室へと向かった。そういや、この前バカっ刀斎に「斎藤はすっかりお母さんになったでござるなぁ♪」とか言われて、そのときはむっとして「黙れ赤毛チビ」と言って蹴ってやったけど、利春の寝顔見るときの俺の顔は、刑事してるときとは頬の緊張具合がだいぶ違うようだ。でもそれは俺だけじゃなくて。
「寝たのか」
「ん」
たぶんこいつもだよなと思いながら、俺は布団の端をめくりあげてベッドに入る。利春を生んで初めて気が付いたことだが、大久保は明らかに子煩悩だった。いつもはただのかっこつけの髭親父の癖に、利春を前にすると唇が綻ぶのだ。普段こき使われている部下に、鼻の下を伸ばした姿を見せてやりたいくらいなのだ。
大久保が風呂から上がってからずっとベッドで待っていた所為か、ふとんが妙に暖かい。思わず、ほっと息をついた。
「昼はともかく、夜はだいぶ冷えるようになったな」
言いながら大久保は「冷える」の台詞とは逆に、俺のパジャマを脱がし始める。
「気温より、あんたの手のほうが冷てぇ」
「だから暖めてやるのだろう?」
「…ふん」
墓穴だった。
ま、悪くないけどさ。
などと思いながら瞼を伏せ気味にして大久保の動きに全部を任せる。冷たい手は相変わらずだ。思った途端囁かれた耳元を軽く齧られて、背筋がぞくりとする。そうでいて、抗う気なんてさらさらない。そのまま目を閉じて体を俺の上に乗せてきた大久保の重みを感じて、いや感じようとして、ぎくりと俺は体を強張らせた。
からり、と部屋の扉(引き戸)が動いたのだ。
そこには利春が立っていた。
「………」
おねむだった灰色の目がみるみる大きくなっていく。…俺には、利春の心の声が聞こえた気がした。
あれは ままのおっぱい
ままのおっぱいは ボクの
ボクのー!!!!!
そして世界は逆転した。
「ふわああああ!!」
利春が大声を上げて泣き出したのだ。
「おい…!」
こんな夜中に大声上げさせてはマンションの住人や管理人に何を言われるかわかったものではない。建設会社はどうやら大久保の会社系列らしいのだが、刑事の俺が母親の子供が大騒ぎしたら警視庁が叩かれるかもしれない。
そういったことを一瞬のうちに考えて、俺は大久保を押しのけてベッドを降り、慌ててパジャマを着直して利春を抱きかかえてやった。
利春はすぐさま俺の胸にしがみついて涙をこすりつける。この小さい体の一体どこからこんな涙が出てくるんだというぐらい、俺のパジャマは濡れはじめた。
「ままーあうおうぅぅ、ままぁひっく」
「分かった分かった!一緒に寝ような!おい大久保っ、俺こいつを寝かせてくるからお前はさっさと眠れっ、ていうかパジャマ着ろ!!」
「寝かせてくるって…俺を寝かせてくれるんじゃないのか?」
「ふわああーっ」
「余計なこと言うな!ともかくこいつのほうが先だからおやすみっ」
「そんな…斎藤…」
呆然とする大久保をほっぽって、利春を抱いた(というか首根っこをしっかりと掴まれて固定された)俺はどすどす音をたてて廊下を歩いて利春の部屋に入った。
サイドテーブルのランプを点けて、ブランケットを開けて利春をベッドに下ろす。が。
ひし。
「とし…俺はちゃんと一緒に寝る。大久保の部屋には行かない。約束する」
「…ほんと?」
冗談ではなく、利春の両目は、既に零れているのとほかの涙で湖面ように潤んでいた。日本人の癖に長い睫毛にも透明な滴がついて、ランプの光を反射する。綺麗な扇形した睫毛のラインも、あいつにそっくりなんだがな。
俺の脳裏で“ひし。”と俺に抱きついて離れない利春の姿が、幼い頃の大久保と重なりそうになる。あいつもこんなだったのかと考えると、笑える。
ひしひし。
「分かった分かった」
笑いを堪えて、俺は利春を抱いたままベッドに入った。
「ずっとここにいるから。…おやすみ、とし」
ふわふわの頭を撫でてやる。この髪の毛は、大抵は大久保の大きな掌で洗われている。多分今ごろ、寝室のベッドでひとり寂しく寝ているのだろう父親の代わりに、俺は優しく利春の頭と額を撫でてやった。
「……」
利春の瞳がとろんとしてくる。それでもまだ離そうとしない、俺のパジャマを掴んだ小さな手が愛しかった。
「…おやすみなさい……まま」
言うなり寝息になって、利春は眠りについた。
おやすみ、大久保。そう思いながら、俺も眠った。
…とまぁ、当日はこうして過ぎたものの、利春の“ひし。”は事件(?)から二日経った今も継続しているのである。大久保に触らせようともせずに俺にまとわりついて歩く利春を拒むのは可哀想だし(どうせ俺だって親ばかだろうさ)、かといって利春を持ち上げて大久保を無視するのも気が引ける。しかし残念ながらこういった場合、勝つのは子供なのである。
そんな俺たちの様子に、大久保は傍目からみると情けないぐらいに青褪めていった。どうやら大久保自身は次の日になれば利春はあの夜のことを綺麗さっぱり忘れてくれると思っていたようなのだが。
ひし。
朝食のおりも利春は俺から離れないため、敢え無く俺は利春を膝に置きながらダイニングテーブルについてカレーを食べさせることになった。
「ほら口開けろ、あ〜ん。…美味いか?」
「(もぐもぐ)…うん」
大好きなシーフードカレーを頬張る利春の顔は、どうしても悲しげだ。そしてひし。俺のシャツにカレーがべったりとつき始めたので、また着替えなければならなくなった。
テーブルを挟んで、俺たちの正面には火の玉を背負ったような大久保がそれこそ幽霊のようにカレーを食べつづけている。
シーフードカレーは大久保の好みなのだ。というか、利春の味覚は大久保に似るところが多いらしく、そういう意味でもふたりは仲の良い親子の筈だった。何よりも、大久保は利春を大層可愛がった。
ハイハイをし出した頃から、大久保は二ヶ月に一度、利春向けのおもちゃを買ってきた。下町にある小さな工房で手作りされた天然木のおもちゃを、必ず自分の手で感触を確かめて購入した。利春は喜んで、飽きることなく毎日遊んだ。なかでも、ひもを引っ張ると可愛いアヒルが車輪のように丸い足をくるくる回しながら動くおもちゃがお気に入りで、利春はひもをひっぱりながら家中を歩き、アヒルを連れ回して喜んだ。そのおもちゃたちは、リビングにからから並んで利春に遊ばれることを、今日も待っているのだ。大久保はそんな利春の姿をデジカメで撮り、メールで俺の実家に送ったりするのが趣味になっていた。はっきり言って親ばか丸出しである。
その大久保が利春に嫌われるとは、なかなか滑稽だ。たいしたことではないとは言え、本人はかなり傷ついている。…そのこともたぶん滑稽なのだ。が、いまは笑い飛ばす気にはならない。
実は、今日は三人で遠出する予定があるのだ。それも、二ヶ月前から予約していたという気合の入りぶりである。
俺は食べさせる手を一瞬止めて考えた。さて、どうするか。折角獲った予約を捨てるのは勿体無いし、かといってこのままふたりの関係がスムーズに修復されるとは露ほども思われない。
利春は俺の、カレーのついたシャツをぎゅうと握り締め続けている。普段は聞き分けが良いのに、ったく誰に似たんだ、鳶色の髪して。
「…ごちそうさま」
もうひとりの鳶色の誰かさんが立ち上がった。一瞬で利春が体ごと更に俺にしがみ付いてくる。いや、正確には、まるで俺を悪の帝王から守るかのように庇って、短い腕で俺の体を抱き締めた。これは大久保に対する恐怖心からではない。大久保に俺を取られることに対する異常なまでの嫌悪感なのだ。大久保が怖いのならば、俺の背中に隠れるはず。利春は大久保に自分の背中をみせて、「ままとるぱぱはいや」を表現したのだった。
「………」
大久保は綺麗に食べ終えた食器を持って「寂しい光線」を発しながら俺たちの横を通り過ぎて食器を食器洗い機にセットし、廊下へと消えていった。
相当ひねくれたぞ、あれは。
親子揃ってなにしてんだか。おーい、ふたりの“とし”、これからどうするよ。
「…ままえびさん、あーん」
小さな“とし”は憮然としたままそう言って、いつも大久保にしているようにカレーに塗れた海老をすくったスプーンを俺に差し出した。
がたんごとん。
結局、遠出は利春と俺の二人ですることになった。準備をしている間、突然大久保が会社での用事を思い出したからお前たち二人で行って来るように、と言い出したのだ。
無論大嘘である。大久保は余程のことがない限り、休日に会社に行ったりしない。利春が生まれてからはその傾向が更にきつくなった。そもそも、予約を入れた計画を自ら壊す真似をする大久保ではない。
だから今ごろ、誰も居ない会社の部長室でコーヒーでも飲んでいるのだろう。(煙草は利春がデキてからきっぱりと止めたのは俺も同じである。)或いは誰か暇な人間を呼ぼうとして携帯電話を取り出し、利春と俺の写真になっている待ち受け画面を目にして、再びがっくりと肩を落しているに違いない。
がたんごとん。
「まま、まーだ?」
対照的に、利春はご機嫌である。靴を脱いだ両足を俺の膝の上でぶらぶらさせながら、初めて見る景色に瞳を輝かせて何度も俺に尋ねてくるのだった。
「つぎの駅で降りるぞ。そしたらバスに乗るからな」
「はーい!」
…可愛いよな。どんな我侭言ってもさ。
俺は利春の頭を撫でてやった。周りの乗客の視線なんか気にしない。
確かに、男の俺が「まま」呼ばわりされるのは不思議だろう。最初、利春を腹に宿した頃は、俺もそうだった。というか、一体どんなふうに周りには映るのだろうと不安に思ったりした。
しかしそんな気持ちは、利春を育てていていつのまにか吹き飛んだ。逆に、生まれたのは自信。俺だって「まま」になれるんだぜ、すごいだろ?という気持ちだった。
だから乗客の興味津々な目つきなんて気にならない。悔しかったらやってみろと誇りたい気さえする。
俺の利春…あいつの子供。傷つけさせやしないんだ、誰にも。
利春は俺の肩越しにみえる動く窓のそとに向かって小さな腕を伸ばし、大久保そっくりの頭を傾げながら、空いく雲をみつめていた。
バスを降りて歩いて少しのところに、今年の初夏に出来たばかりの自然公園がある。都内の中心からは外れているが、流石にこんなに大きな自然を模した公園が出来ては、家に閉じこもりがちな都会の子供たちも我慢できないらしく、日曜日には明るい声でこの公園はいっぱいになる。ウィークディは老人たちの憩いの場になっているそうだ。
俺は利春が行きたいと言うので、最初に昆虫の森に連れて行った。それからもう少し暗い森で小川のせせらぎを聞いて、滝を見た。太陽の光を浴びたくて、広場に座って持ってきた握り飯を食べた。
「なぁ、とし」
利春は俺の膝のうえで、小学生くらいの子供たちが競ってあげているカイトが風に泳ぐのをみながら、大好きなおかか握りを食べている。
俺はさりげなく言った。
「この公園は大久保が作ったんだよ」
「……!」
利春の体がびくっとした。俺は畳み掛ける。別に、嘘言っているわけじゃないから。
「ぜんぶ、あいつが考えたのさ」
「……ぱぱが?」
「そう。利春と遊びたいなーって作ったんだ。あいつ物知りだから花や木の名前を教えたり、ボールで遊んだりしたかったそうだ、お前と。証拠はこれだ」
言って俺は、俺たちの座っている芝生の片隅に埋まるIWAKURA Co.のロゴが彫られたプレートを指差した。アルファベットが読めなくても、このロゴが大久保の勤める会社のものであることを、利春は知っている。
「………」
利春は黙って広場で遊ぶ親子連れをみた。そして思い出したはずだ。いつも、ふいに頭や頬に包み込むように触れてくる大きくて冷たい掌の重みを。そしてそれは、俺の手ではないのだ。
「………」
俺は飯を食べ終わると少し休み、利春の手を取って、林のほうへ歩いていった。
「斎藤さん…?ああ、斎藤さん。ご予約入ってますね、…あの、ご予約は三名様になってますけど…お二人でも宜しいですか。では、どうぞ」
管理棟で簡単な受付を済ませてから俺たちは秋の日の射す林に入っていった。入るなり軍手を取り出して、利春にもはめてやる。そして林を縦横する小道にはいがいがが俺たちを待っているのだ。
栗拾い。
これが今日のメインイベントだ。東京で育った俺は、こういうミニハイクっぽいのに実は弱かったりするのだ、…ほっとけ。
「転ばないようにな」
「はーい」
利春は、落ちているいがいがを触るのに既に夢中である。いがいがだけでなく、どんぐりにも手を出している…っと、それは俺もなのだが。
こうして俺たちはあっちこっちと歩き回り、予め準備してきた厚い紙袋に拾った栗やおまけのどんぐりを入れて行った。林の香りが紙袋にも溢れる。踏んだ木の葉の絨毯の柔らかさがなぜか嬉しくて、どんどんどんどん足が進む。…こういうことも計算して、大久保はこの林を設計したんだろうと思う。
あいつの気持ち、利春にきちんと届いたと思いたいが―――――…
「それは?とし」
ふと見ると、俺は利春が胸に結構大きないがぐりを抱えているのに気がついた。オブジェにしたいくらい割れ目もそこから覗く実も綺麗に整ったいがぐりだ。
「袋に入れないのか」
「…ぱぱにあげゆ(る)の」
「……」
じゃぁ、お前がもっているほうがいいな。
何も言わずに、俺は利春のリュックを開けてそれを入れてやる。利春は重さを増したリュックに少しはにかんで、ゆっくり俺の手を取った。
家に着くなり利春は、玄関に大久保の靴があるのをみたらしく、自分で靴を脱いでたたたたーっと廊下を大久保の部屋のほうへ走っていった。
いつもは手洗いしろ、うがいしろと言う俺も、今日は黙っていてやる。俺は栗袋とスーパーの買い物袋を持って、台所へ向かった。
栗は、退屈しのぎに遊びに来るバカっ刀斎や俺のおふくろや姉貴に皮を剥かせるとする。形の綺麗ないが栗は、剥かずに葵屋の部屋に飾ってもらうのも、いいかも知れない。
などと考えながら炊飯器を開ければ、甘い香りの栗ご飯が待っている。あとはさっき買ってきた舞茸(まいたけ)や薩摩芋を天ぷらにして秋刀魚を焼き、大豆と昆布の煮物と筑前煮でも作って、食欲の秋を満喫するとしよう。余った芋で羊羹も拵(こしら)えてやる。
俺の包丁の音に重なって、やがて廊下の向こうから、ふたりぶんの体重を支えた足音がひとつ聞こえてくるのだ。
…ちゃんと、仲直りしたよな…だいじょうぶだろうな…
「…ふん」
俺の心配を他所にするところも、お前らそっくりだよ。ったくふたり、良く似た親子だ。
俺はククク、と笑った。
「……」
笑いながらそっと呟く。ほら、廊下から音が聞こえてきた。
そして大久保の掌がリビングに繋がる扉を開けるだろう。
大久保の胸にはすっかり機嫌が戻って、同時に少し成長した利春がいて、そのふたりに、俺はこう言うのだ。
……今度行くときは、三人でいこうな……