Straight Through My Heart

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※※ 18歳未満の人は、絶対に読んではいけません ※※
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BGM: Straight Through My Heart/Backstreet Boys

     Thanks for their singin' spirits!


 古来、神道に於いて、刀剣は神器であり、魂の籠った神そのものでもあった。故に、創成以来「自由の剣」を標榜する飛天御剣流にとっても、皇室のみは別格であり、新年一般参賀の前に行われる御前剣舞奉納は、実に見事なものである。

 幻の存在とされている飛天御剣流の現継承者である比古清十郎が、世界的陶芸家の新津覚之進であることを知る人物は非常に少なく、この俺も半年前まで全く知らなかったが、微笑を浮かべられた今上が興味深そうに、比古の放つ気と剣舞が、しんと静まり返った空間を切り裂き、敷き詰められた砂利が木枯らしのように宙へ高く巻き上がっていくのをご覧になる姿を、勝っちゃんに同伴して皇居に詰めていた俺は、右斜め方向から見ていた。

 比古の剣舞によって、空間のそこここが、その荘厳さにぴしりと音を立てるかのようにして更に冴えて行く。御前だと言うのに表情ひとつ変えずに、濃紺の袴の上に、同じく濃紺のたすきでたすき掛けされた純白の羽織の袖が流れるように揺れて、宝刀・桔梗仙冬月(ききょうせんふゆつき)が睦月の冷たい空気のなかで煌めくのを、警察官の正装を纏った格好をしている事も忘れて、ぽかんと口を開けて見ている俺は、さぞかし滑稽に映ったことだろう。

 気と刀によって繰り出される風圧だけで砂利が巻き上がっているのに、比古の漆黒の髪や濃紺の袴は塵ひとつ付いていない。

 完敗だ。これが、地上最強の男なのだ。

 そう思って、ごくりと喉を鳴らした俺の横で、勝っちゃんはじっと比古の剣舞を見ていた。勝っちゃんは比古の四人前に剣舞奉納を終えたばかりである。毎年ここで奉納剣舞をする勝っちゃんとは違い、秘剣である御剣流は、創成以来十年に一度の奉納と決まっている為、実際に目の前で飛天御剣流剣舞を見るのは、勝っちゃんも俺も初めてだった。数年前まで天然理心流の剣舞は、勝っちゃんの養父である近藤周助師範によって奉納されており、理心流内で比古の剣舞を見たことがあるのは師範だけだったのだ。

 戦国時代よりも前から伝わると言う飛天御剣流は、分派されたことが無い古武道の一つで、代々、剣技と比古清十郎と言う名を継ぐと言う、秘剣中の秘剣である。速く重い剣として知られ、実戦技法だけでなくその美しさが評判の割に、真実を見たことのある者は殆ど居なかった。半ば伝説と言われていた飛天御剣流が再び世で知られるようになったのは、緋村剣心と言う警察官が全国警察剣道選手権大会に初出場し、いきなり優勝したからである。

 警視庁第一方面神田署 緋村剣心 飛天御剣流

 とのアナウンスが流れた時、武道館が大きくざわめいた。団体戦準決勝で負けた事で俺にどつかれていた総司が、床に伏せていた顔をがばっと上げたのだ。総司は結核が再発していて、ここのところ体調不良が続いていたが、顔色が急に良くなったのを覚えている。

『飛天御剣流?! いま、そう言いましたよね、アナウンス』

『お、おお、確かに聞いたぜ。マジかよ、神田署っつってたな』

 興奮した俺と総司が、個人戦の会場に向かうと、試合場は既に人だかりが出来ていた。何とか観戦しようと、試合場の片隅から漸く持ってきた椅子の上に乗っかって、試合を観た。

 飛天御剣流の警官は俺よりも遥かに小柄で(どう見てもチビ)、だが強かった。小さな体で、確実に取った。小柄を生かしてのすばしっこさだけでなく、構えや踏み込みのいちいちが決まっており、圧倒的な速さで勝ち上がって行った。おまけに、個人戦準決勝が始まる直前に、どこでも大人気の木戸孝允が入って来て、緋村の応援を始めた。緋村は木戸の、高校の後輩だと言う。神道無念流の天才も会場に来たとあって、武道館の盛り上がりは過去にないほどに凄まじかった。

 個人戦決勝は、キャリアの癖に馬鹿みてぇに強い本庁の斎藤一と、緋村が戦った。三本目で緋村が勝ち、それが、飛天御剣流の名が俺たち警官の間で一気に復活した瞬間だった。

 優勝後のインタヴュー記事には、意外なことが書かれていた。緋村は幼少時に親を亡くし、とある人物に引き取られ、警察学校に入る直前まで育てられていた。

 その男が、飛天御剣流十三代目・比古清十郎であった。

 記事には、緋村は十四代目を継承する為に比古に引き取られた訳では無いから、いまは飛天御剣流よりも警察官としての自分を全うしたい、この優勝でやっと師匠も拙者を認めてくれるかも知れない、と言う緋村の言葉も書かれてあった。また、緋村の保護者は比古で後見人は木戸孝允、ともあった。

 飛天御剣流の継承者に育てられ、木戸孝允から後見されている緋村と言う警官は、所謂制服組で、掴みどころの無い性格であり、詰めが甘く、はっきり言ってでくの坊らしかった。緋村さんがうち(日野署)にいたら、絶対土方さんにどつかれますよね、と総司が言うくらい、酷かった。剣を除いては全くの凡人で、目立たないことこの上なかった。

 そう言う意味で、飛天御剣流は俺にとっては非常に興味深く、同時に意味不明の存在に思えたのだが、こうして本物の比古清十郎を見ると、

「凄ぇ」

 の一言しか出なかった。

 比古が剣舞を終えて深く拝礼して御前を下がると、全部で十六流派あった全ての剣舞奉納が終わり、一般参賀の準備に入る。俺は素早く着替え、ごった返す大手門を出なければならない。比古の剣舞を脳裏で再度思い描いた俺は、警察官に似合わぬ面妖な面を、そろそろ突入してくるであろう一般参賀者から隠すために、さっさと私服に着替えてレイバンをかけた。署長である勝っちゃんは警察官正装のまま日野署に戻り、パトロールをした後で、試衛館道場で剣舞披露をするのだ。俺たちは大手門を抜けた後で別れ、俺はここと同じく千代田区内の、料亭が立ち並ぶ閑静な石畳を目指して、参賀者の波の中を何とか潜り抜けた。

 皇居周辺は相変わらず厳重な警備が敷かれ、多すぎる人の数に埋もれていたが、メトロで一駅分離れた料亭が立ち並ぶこのエリアは、料亭が休みとなる年始のみは嘘のように静かで、竹藪がさわさわと鳴る他には、石畳を叩く俺の足音しか聞こえなかった。

 道なりに歩き、三つめの角を曲がって、また道なりに行くと、高い垣根に囲まれた竹藪と広大な敷地が見える。その敷地内駐車場で、434 AMG ルマンレッドのメルセデスSLS AMGのガルウィングが冬空に向かって立ち上がり(「公式写真はこちらをクリック」「ルマンレッドはここをクリック」)、袴姿の比古がちょうど運転席から出てくるところだった。

「よぉ」

 目ざとく俺を見つけ、ニヤリと笑うのは、先程皇居の神楽舎で周囲を圧倒した十三代目とはまるで異なる、物好きで変態の、どうしようも無い男である。

「なんだ、警官正装は脱いじまったのか? 似合ってたのによ」

「今頃、勝っちゃんの車のなかで日野署に向かってるだろ。この面(つら)であんなの着て歩いたら、俺は一生、都内を歩けねぇ」

 言うと比古は、ニヤニヤ笑いを更に悪化させて、AMGの後部座席から、房付金襴扇模様の正絹の刀袋に入れた桔梗仙冬月を取り出した。天才と名高いこの男にとってこの世で最も大切なそれは、飛天御剣流に代々伝わるもので、奉納剣舞を除いては世に出ることが無い。比古と比古の屋敷に住む者を除いては、刀鍛冶と研師(とぎし)ぐらいしか存在を知らないそうだ。戦国時代を含めて何百人の血を吸ったか知れないとされる宝刀は、比古が上京する際には普段、この屋敷の最奥に位置する和室の、床の間にある黒檀の刀掛けに置かれている。

 開け放した和室で、刀身が月光を浴びて白く輝く姿に見惚れて、吸い込まれそうになる度に、比古は繰り返し言って来た。

 近藤はやめろ、あいつはお前の為に、全部を捨てるような漢(おとこ)じゃねぇよ

 分かり切ったことを言われても頑として動かない俺の心を揺さぶるように、飽きもせずに俺を抱くのだ、

 たぶん今夜も。



     Straight Throught My Heart



 この屋敷は、比古が陶芸家、では無く画家、兼作家の新津覚之進として活動する際の拠点である。京都の本宅には窯とアトリエがあって陶芸と彫刻向き、鎌倉の別宅には庵があって書道家向き、そして都内のここにも庵はあるが鎌倉のそれよりも小型で、雨を遮る為の四阿(あずまや)程度の大きさしか無かった。苔むした庭の中央にある池の東側にあるそれは、大手新聞で連載中の小説を構想する時に使われている。

 陶芸と作画と彫刻には殊更に時間を掛けるが、作文と書道は大して時間は要らねぇよ、と言う台詞を聞いたら、売れない三流作家やライターは落ち込んで大変だろう。作家の新津が人気が高いのは、デヴュー以来一度も締切を破ることが無く、作家としての自分の意向だけで無く、不況が続いていた出版社の意向も良く汲み取って、売れる作品だけを世に送り出しているからである。マルチタレントらしく、美術、音楽、建築の知識に詳しい彼の文章は、あまり和書を読まない俺が読んでも確かに面白く、実は日野市の自宅マンションに置いてあるkindleに、刊行された電子書籍のうち八割が入っていた。

 刑事などと言う堅苦しい職をしていると、時に、頭のなかを別世界に飛ばしたくなる。俺にとっての別世界は洋書の世界だった。日本でもkindleから洋書が購入出来るようになり、海外のミステリー小説や元捜査官が書いたエッセイなどを良く読んでいた。日本ほど閉塞されていないアメリカの犯罪捜査現場が羨ましくて、そういう文章を読むのが、剣道と射撃くらいしか趣味の無い俺の楽しみだった。

 その俺が惹き込まれた和書が、新津覚之進だった。面妖な面を持つ俺は日野市の図書館や書店に入ることが出来ず、アマゾンなどの通販で買うか、シークレットサービスの仕事を終えた後で丸の内や新宿の大型書店で漁るくらいしか選択肢が無い。たまたまOAZOの丸善で手に取った最新作を買って、パラパラとページを捲っているうちに、脚がレジに向かっていた。

 帰宅後に書店のロゴが印字された紙袋から取り出した「茜空(あかねぞら)に光る」は、一人の剣豪が仁義と忠義に生きながら、剣の戦いに敗れてぼろぼろになって故郷に戻って来た友人の為に、自らの命とも言える刀を売って高い秘薬を探し求め山奥に入って失明するものの、最後に友人の命を救う、と話だった。茜空に光る親友(とも)の頬に零れているであろう涙が我が手を温かく濡らして、俺たちの日々はまた始まるだろう。この一文で終わる小説は、深く、潔く、美しかった。久しく日本の小説で感動したことが無かった俺は、すっかり新津のファンになり、新作の発表を楽しみにしていたのだが、

「………」

 目の前で、日本酒だけでは足りず自家製のワインまで並べて、住み込み家政婦が作った正月料理に舌鼓を打つ軽々しい男が、その作家の正体だと知って、現実を知らないファンは幸せだよな、と因果な出会いを激しく後悔している。

「さよりの御節は絶品だな、ほら、お前もさっさと食え。でないと俺が全部を平らげちまうぜ」

 さより、とは、住み込み家政婦の名前である。厳島さより、と言う如何にもな名前の老女は、源五郎と言う庭師の夫とともに、この屋敷の管理をしながら、比古の家事一切を行っていた。尤も、比古は何でも出来る男であり、さよりと一緒に炊事場に立ったり、屋根の修復をしたりしている。屋根付き露天風呂も、半分近くは比古が作ったそうだ。

 歳三さんも、冷めないうちにどうぞ。

 と差し出された海老しんじょ入り吸い物は、確かに旨かった。椎茸の裏側に乗っけられたしんじょはプリプリした歯ごたえがあり、昆布の出汁が沁み込んでいて、畜生、美味いんだよ。

 ぶつぶつ言いながらも、次々と出された料理をじっくり味わう為に確り噛んで食べる俺を見て、比古はまたニヤリと笑った。

「そうだ、良く噛んで食べろ。どうせ今夜は日野に戻れねぇんだし、しっかりカロリーつけとかねぇと、俺には付き合えねぇぜ」

 堂々と言われて固まった俺を、さよりはくすくす笑う。どう考えても笑うところでは無いだろう。雇い主が変態だと、家政婦まで変態になるのだろうか、それとも、やたらと風流なこの屋敷を設計から施工まで取り仕切った雇い主の空気を浴びれば、常人でも変態化するのだろうか、だとすると、いずれ俺も……と恐ろしい予想をしてしまい、ますます俺は言葉を失う。テーブルに所狭しと並べられた五重の重箱や、吸い物、切り餅を揚げたものや、クルミ餅。揚げ餅の入った鍋まで用意され、こんなに食えないだろうがよ、と思ったら、持ち帰り用の土産までしっかり用意されてあった。

 竜馬から任命されたシークレットサービスは俺の場合、日野署の刑事と言う表向きの仕事を終えてから行われる。竜馬曰く、サービスの存在を隠したいからシークレットサービスに専従者は置いていないそうだ。急がんで良(え)いから確実にしとうせ、とのことで、俺は日当直以外は予定の無い日曜日か、非番の日に二十三区内を捜査した。とは言え、人の多い日曜日の捜査はし辛い。

 だから非番か仕事を早く終えた土曜日に区内を歩き、サイレンサーを付けたシグ・ザウエルでターゲットを撃っては、官邸に届ける。これを繰り返すだけなのだが、その俺のスケジュールが何故か比古の上京と重なることが多く、正体がバレて以来、事あるごとにこの屋敷に引きずり込まれ、服を剥かれ、体を探られ、ジャケットのポケットに屋敷の合鍵を突っ込まれた。

 車好きの性格まで見抜かれ、ポケットに比古の愛車であるSLS AMGのスペアキーまで突っ込まれた時には、流石に返そうとしたが、俺の掌がキーの硬質さに感動して、思わず握っていた。ちゃり、と音が響いて、開いた掌に乗っかったスリーポインテッド・スターのエンブレムをじっと見つめて誘惑に負けた俺は、比古が屋敷にいない間、SLS AMGを走り回した。勿論、さよりには断ったが、「新津先生は、いつでもごゆっくり、だそうでございますよ」と微笑まれるだけだった。

 黒のフルレザーのシートにはシートヒーターが装備されており、背筋の痩せた俺にはちょうど良かった。運転席を乗り降りするには、身長が170センチしか無い為、ガルウィングを手早く閉め慣れるまで少し時間がかかったが、ルマンレッドのボディをどうしても比古のように軽々と操りたかった為、回数をこなして練習した。

 車体価格だけで3000万円近くするSLS AMGは、シークレットサービスで高額収入を得ている俺も買えないわけでは無かったが、日野市で刑事が乗り回すには派手すぎる為、眺めるだけで我慢していたのだ。比古も車好きで、これの他にM-Classを千代田区のこの屋敷に、二台のBMWを京都の本宅に置いていた。鎌倉にはSLS AMGかM-Classに乗って行った。俺と会ってからは、助手席に座った比古が、SLS AMGを運転して喜ぶ俺を眺めて喜んでいた。

 走り慣れた首都高が、左ハンドルになるだけだと言うのに随分違って見える。料金所を通る度に、助手席側に右腕を伸ばして、警察手帳と竜馬のブラックカードを見せなければならないことが面倒だったが、それ以外は、俺のアクセラとも勝っちゃんのランドクルーザーとも違う車で、150キロ近くまでアクセルを踏み込むと、羽か翼が生えた自分が空を飛ぶようで、心に溜まっていた靄が無くなりそうな感じがした。勿論これは俺の妄想なのだが、比古も同じだと言った時には、少し驚いた。

 天才にも悩みはあるのか?と問うと、頭にあるイメージよりも自分の手で造ったものが醜いと、どうにも自分が許せないのだと言う。頭に浮かべられた癖に、形として世に生み出せないとは何事だ、それでも天才と言えるのか―――――如何にも比古らしい、過分に自己陶酔的な返答だが、一部の人間を除いて世俗との関わりを絶って創作を続ける彼の生き方を、俺はだんだんと羨ましく感じるようになっていた。

 所轄の刑事は、形のあったところで発生した事件を、形が無くなった、或は崩壊したところから再現し、最後は文章と言う形に纏めなければならない。きっと俺の知らないところで、形を失った事件が沢山あるだろう。刑事の仕事は、形が無いところに形を生み出す芸術家の比古とは全く逆の内容なのだ。

 一を百にすることは誰にでも出来る、が、ゼロから一を作るのは天才にしか出来ない

 勝っちゃんの養父である三代目(近藤周助師範)から繰り返し言われた言葉を、俺は比古を見るたびに思い出した。

 京都の本宅の他に東京と鎌倉に別宅を持ったのも、煮詰まった自分をクリアにする為に、東名高速を突っ切りたかったからだそうだ。そして、突っ切るのに相応しいSLS AMGをキャッシュで購入した。

 名神高速の「南京都」を夜に出発し、六時間走って東名高速「東京」に着くのが午前六時。途中のサービスエリアで休憩は入れるが、比古の巨体ではどこでもかなり怪しまれる為、エンジンを切って仮眠を取る程度にし、ブラックコーヒーを二つカップホルダーに入れて、青紫から赤紫、橙…と彩を変える空を東に追いかけると、東京に着く頃には気分が晴れて、この屋敷でさらっと文章を書き、再び高速を飛ばして京都に戻り再度陶芸と彫刻に取り組む。そうして出来上がったのが、陶芸家・新津覚之進の数々の傑作だった。つまり比古にとっては、小説や書字と言うものは、気分転換で作った些細なものなのだ。しかしそれが、世間で大流行している。

 世間は分からねぇ、と笑う比古だったが、その世間があって自分が好きなことをして生きていけるわけだから感謝はしてるぜ、と続け、お前に会えたしな、とも言った。こうして正月料理を平らげる今この瞬間も。

「俺の剣舞は、どうだった?」

 自信ありげに、あっさり聞くな。

 比古ほど食欲が無い俺は、比古の半分の食べないうちに箸置きに箸を置いて、ウィスキーを飲んでいた。比古が取り寄せた酒はどれも旨いのだが、俺が一番気に入っているボトルを、こいつは毎回欠かさなかった。いま飲んでいるものも、ノンキャリの警官が飲むことはまず無い高級品である。シークレットサービスの給料でも、そう簡単には買えないものだが、比古にとってはコンビニで買うくらいの商品、と言うノリだったらしく、この屋敷の蔵にあと三本あるそうで、遠慮せずに飲め、としつこいが、俺は比古ほど酒が飲めないのだ。

 そのウィスキーをストレートでちびちび飲みながら、俺は応えた。

「今上が感動していらした。凄ぇよ、マジで、そう思った」

 気合と風圧だけで砂利が柱のように立った。それも二つも。あんなもの、初めて見た。

 俺の返事に、比古は満足げに顔を綻ばせた。

「そうか、十年前の奉納では、天然理心流は三代目の周助さんだったからな、あの時お前は参内してなかったから、今日のはお前にとっては初めてだったのか」

「……師範を知ってるのか?」

「俺の師匠の十二代目比古清十郎と交流があったのさ。俺も、襲名前に挨拶に行ったことがあるぜ、お前らの試衛館道場に」

「……!」

 驚いて、左手で温めていたウィスキーグラスが揺れてしまった。何年前、と尋ねると比古は、

「俺が二十四の時だ」

 と答えた。比古の話を概算すると、ちょうど俺が警察学校に居た時、と言うことになる。

「あの時、生意気そうに周助さんの隣にいた近藤がお前の本命とはな。遠慮しねぇで、ぶっ叩いておけば良かったぜ」

 それが俺の唯一の後悔、と再び比古はニヤリと笑った。お前も、しょうもねぇやつを好いちまったなぁ、と加えるのを忘れなかった。

「……その言葉、そっくり返しとく」

「おいおい、俺の趣味を貶すんじゃねぇよ。お前をモデルにした『ラ・フロレゾン』だけで、今度美術展を開くことになったんだぜ。東京と横浜と大阪で第一弾、広島と福岡で第二弾」

「何だと!」

「だからお前には感謝してる。一応、近藤にもな。あいつが居て、今のお前がいるわけだろう? ま、昔に比べて近藤は随分情けなくなったけどよ。前はもっとちゃんと、ギラギラしてたぜ」

「………」

「―――――そう、その目だ。お前はそうやって、ずっと俺を睨んでいろ。そうすれば、面倒なことも忘れられる」

「!」

 言って比古は立ち上がり、俺の腕を掴んだ。左手から、ウイスキーグラスがテーブルに落ちて、琥珀色のマッカランが零れ、芳醇な香りが床を濡らしていく。一本が六百万円するマッカラン1926年が勿体なくて、慌ててグラスを元の位置に戻そうとした俺の、マッカランに濡れた指を取って、舐め上げた。

 びくりと体を震わせた俺の腰を抱きしめて、あっという間にジーンズからベルトを抜いてしまう。外はまだ明るいと言うのに。

「それが嫌だってんなら、忘れさせてやるまでだ」

 そうして俺は、こいつに引き摺り込まれるのだ。





 肌に残る湯ノ花の香りを厚い唇が追って、寒さに震える筈の俺を温めて行く。

 夕方から降り始めた雪が広い日本庭園を白く染めて行くのを見たいのに、比古の熱が苦しくて、何度も体を捩った俺は、この日三度目の吐精をした。比古の喉がごくりと下って、俺のを飲み下す。何度やめろと言っても、きかなかった。

「近藤は構ってくれてねぇのか? 俺にはちょうど良いけどな」

 あいつの抱き癖がつくのは、つまらねぇ。

 そう言って、比古は、脱力して自由の利かなくなった俺の脚の間から顔を上げた。引き締まった男らしい貌が、俺ので汚れているのを認めると、全身についた火が更に熱く俺を焦がして、どうにかなってしまいそうだった。始まったばかりだと言うのに潤んだ目で見上げると、比古は、余裕ありげに笑うだけで、彼の雄もまだ本気では無かった。

 こうやっていつもこいつは、俺を嬲って甚振って、俺だけをイかせて喜ぶのだ。俺の上げる嬌声が寝室の雪見障子から漏れることさえ愉しんで、近くでさよりの気配がしても、一向にやめようとしなかった。

「……っ…」

 身についた刑事の反射で、さよりが向こうの廊下を歩く音を聞いて震えた俺を比古が裏返して、布団に俺をうつ伏せにした。

「また痩せたな」

 するりと撫でられた背中。

 体をびくりとさせた俺の背骨に舌を這わせながら、比古が言った。勝っちゃんがつけたキスマークを辿るように、比古の厚い唇がところどころ止まりながら、情けないほど薄い背筋を上下する。

「さよりも心配してたぜ、日野署はそんなにお仕事が大変なんでしょうか、ってな。だから言っておいた、歳三をこんなにしたのは近藤って言う役立たず署長の所為だ、ってな」

「…な……!」

「さっさとあいつが署長辞めて、お前が署長になりゃ良いだけじゃねぇか。そうなりゃ、坂本だってシークレットサービスなんざ頼まなくてもお前が勝手に部下にやらせるだろうってのにのよ。あいつが何考えてんだか知らねえが、本庁の奴らは、お前らが思ってる程、所轄の事なんて相手にしてねぇぜ」

 分かっていた。俺たち所轄がどれだけ這い蹲っても、俺たちの手の届かないところを瞬く間に駆け上がるキャリアたちにとって、俺たちの汗水は、紙屑程度でしかない事を。所轄の署員が殉死しても、彼らには何の痛みにもならない事も。署長に就任した勝っちゃんの顔が曇りだしたのは、自分が署長になって以来、やたらと忠義心の厚い部下らが次々と殉死して、昔から人情屋の彼にはそれが耐えられなかったからだ。

 そんな日々が最強だった彼の剣技までを狂わせ始めて、最近は総司の方が明らかに強くなった。だから師範(三代目)は、早く勝五郎に四代目を正式に襲名させたい、と繰り返し俺をせっついてくる。

 キャリア連中には、そんなことは関係ないだろうが、試衛館道場で育った俺たちには大問題だった。あの勝っちゃんの腕が衰えるなど想定外の出来事で、頭では理解できても心がそれを受け入れられない。

 考えに考えた末、俺に出来ることは、最後まで勝っちゃんを支えることだけだった。

 支えたい、ずっと、そう思っているのに。

「本庁の奴らが見ているのは、お前だ、歳三」

 腰椎の辺りを舐めまわしている比古の真っ直ぐな言葉が、骨盤を通じて俺を射抜く。

「お前なんだよ、近藤じゃねぇ。分かってンだろ?」

「――――……っ……」

 認めたくない一言を、あっさりと言い放つ比古の指が、比古と俺の腹を汚した俺の精液で濡れたまま、俺の奥に入り込むのを感じて、俺はシーツを握りしめた。

 分かっていた。

 現場の刑事としても、指揮を執る警官としても、俺の方が力が上であることを。すなわちそれは、いずれ俺が勝っちゃんを日野署から追い出し、勝っちゃんが正式に試衛館道場を継ぐことを意味するのだ。

 幼稚園から高校まで一緒で、大学の四年間は道場で毎日顔を合わせ、警官になってからは互いに功を競って、ずっとずっと肩を並べて来たのに、いつの間にか俺の周りには、他の刑事が投げてかかる難題が溜まり、それを任されるようになっていた。誰もやろうとしない仕事に取り掛かるうちに、俺に力がついたのだ。判断力、推察力、洞察力、追跡力。そして明らかに業務に向かないこの面妖な面で、刑事課に配属され、勝っちゃんでは無し得なかった未解決事件消化率六割を、就任後半年で達成した。当時の署長から呼び出され表彰されたのは、二十代では俺だけだった。その時言われたのだ、「土方くんは署で最も優秀な刑事と私は認識している。おそらく警視庁一だろう。我々は君を誇りに思う」と。

 それは、竜馬からシークレットサービスを任命されて、確定事項となった。竜馬は勝っちゃんを、大して認めてはいなかったのだ。せいぜいが所轄の署長止まりじゃろう、そう言って。

 わしはの、トシ、おんしを下に留めるつもりは無いきに。

 シークレットサービスで捕えたターゲットを官邸に届ける度に、竜馬から言われた言葉が俺の心臓に刺さって、日野管内に帰る度に、俺の心は沈んで行った。

 竜馬や本庁の連中がこんなことを思っていると勝っちゃんが知ったら、勝っちゃんはどうなるだろう。

 勝っちゃんの性格を知り尽くしている俺には、その答えが見えていた。

 俺は、そんな彼を見たくなかった。同時に、竜馬から依頼される仕事も手を抜きたくなかった。いちいち仕事をこなして官邸に届け、竜馬が所持している要注意人物リストを、誰よりも早く消していく俺を見ながら、シークレットサービスを統括している木戸が竜馬に言ったのだ。

 竜馬の人選は正しかったね、土方君の師匠があの近藤君だから、私はいまいち自信が無かったのだけれど、鬼の副将の腕は健在だったわけだ。近藤君では、こうは行かなかっただろう

 木戸孝允は、過去に何度も勝っちゃんを剣道で吹っ飛ばしていた。木戸曰く、勝っちゃんの剣には欲があって、だから、ゼロの精神を持つ木戸にとっては容易すぎる相手だそうだ。

 所轄を、署員を守るために、自らを盾にして、自らの心を汚して、欲に塗れた結果、剣が衰えて、体躯が立派なのに将来が見えた近藤勇。

 所轄にいながら、政府中枢の竜馬と木戸を背に、痩せこけた自らを銃身にして真っ直ぐに突っ込んで、警視庁一と謳われる俺。




 何故だ

 何故だ!

 こんなにもあんたを愛しているのに!!




 溢れ出た涙が真っ白なシーツを濡らして行くのを見つめていた比古のもう片方の指が、俺の睫毛をなぞる。

「馬鹿野郎…こんな時に、あいつの為に泣くんじゃねぇよ」

 普段は余裕のある男の唇から、苦々しそうな言葉が絞り出された。

「どうせ泣くなら、俺の為に泣け」

 ここだけで良いからよ

 そう呟いた比古は、うつ伏せになっていた俺を抱き起して、胡坐を掻いた自分の上に、自分と向き合わせる格好で、俺を座らせた。出し入れされる太い指がより奥まで届いて、息を止めた俺の喉仏を、比古が舐める。舌の感触に俺の雄が震えて、そこに擦り合せられていた比古の雄が勃ち上がって、唸った。比古の筋肉が厚みを増して、彼の肩を掴んでいた俺の指の爪を、ぐっと押し返してきた。

「あ……は……っ」

 欲しい。

 絡みつく熱さが足りなくて俺が急かすと、比古は二重の瞼を少し細めてから指を抜き、俺の中にゆっくりと入って来た。勝っちゃんとはまるで異なる大きさに、恐怖を感じながらも息を止めて、待った。根元まで飲み込む時、俺はいつも両目を閉じて、比古を感じるのだ。勝っちゃんとの違いを、すみずみまで味わうように。抱かれることは、勝っちゃんを思い出すことになると、分かっているのに。

 比古は、ゆっくりと腰を動かしながら、俺のなかで息吹き始めた。普段とは別の重量に頭を振った俺の髪の毛が乱れて、比古の長髪を叩く。シークレットサービスの折にいつも薄く塗るミルラの香りが好きだと、比古は言った。俺の体臭と混じったミルラが、花の香りみてぇだと。そんなところは勝っちゃんと同じだった。

 けれども、圧倒的に違うのだ。

 第十三代目比古清十郎、本名、新津覚之進。

 神に愛された伝説の男。

 自分を倒すのに相応しい男を求めて、彼はいまも歩いている。その先に自らの死があっても構わないと豪語する生き様は俺の理想で、剣士として衰えつつある勝っちゃんや、俺の殉死に怯える由美を遥かに越えたところに居た。先代(十二代目)を激闘の末、殺したことになる比古の目はいつでも真っ直ぐで、迷いが無い。力強い目が、常に迷い、躊躇う俺を射抜いて、ここに、今に俺を繋ぎとめていた。

 シークレットサービスとの二足の草鞋で疲労が嵩む体を引き摺ってでも、千代田区のこの屋敷を訪ねるのは、比古に、俺の至らなさをぶつけては、逞しい心と体に打ち砕かれたいが為だった。

 もっと比古が欲しくて、俺が自分で動き始めると、比古は両手で左右から俺の腰を抱えて、そこからも比古の熱が伝わって来た。広くて大きくて厚い掌。俺も震える手で、比古の項を掴んで、俺のなかの熱を引き絞るように締め付ける。雪の降り積もる庭を前にした広い和室に、濡れた音が響いて、俺が跨っている比古の脚や畳に俺の欲がしとどに零れても、俺たちは止まらなかった。

 勝っちゃんと由美と出会わなければ、俺はこいつを選んでいただろう。それぐらい、相性が良かった。体も心も、歯車のように見事に噛み合って、満たされないところは無かった。比古も俺を離そうとしなかったし、俺も比古から離れようとは思っていなかった。勝っちゃんへの報われない思いが俺の美貌を曇らせる、と言って勝っちゃんとの関係を比古は嫌がってはいたが、口うるさくは無かったし、俺の選択や自由を限りなく尊重した。由美との付き合いについても、趣味は悪いが俺らしい、と笑うだけで。

 仕事柄、俺は比古の京都本宅に行った事がなかったが、さよりや鎌倉別宅の家政婦(さよりの姉でさゆりと言う)が言うには、比古の相手は俺ひとりだそうだった。世俗を離れて芸術活動に勤しみながら、最大の目的である飛天御剣流の十三代目として剣技を磨き、継承者を見つける。そんな(新津)先生に、遊びの相手はいらっしゃいませんよ、そう微笑んださゆりは、鎌倉の庭に咲く紫陽花を見つめる比古が好きだと言った。

 俺は、青い宙(そら)に振り上げた桔梗仙冬月が、森閑とした空気を音も無く切り裂いて大きな旋風を作り、庭に咲き乱れた花びらが宙いっぱいに舞い上がる中で、比古がひとり佇む姿が好きだった。幻想的な光景に見惚れ、重怠い体を引き摺って、比古が俺の為に誂えた浴衣の袂を、繰り返し抱かれた為に力が入らなくなった手で何とか合せつつ、縁側に行って柱に身を凭れさせ、桔梗仙冬月が繰り出す美を見ては言葉を失う俺を、比古は十三代目の目で見た。

 さよりと源五郎夫婦の為に咲かせた彩(いろどり)豊かな花が、どんな季節でも庭のそこここを極彩色に染め上げる。狂い咲きは、比古の指が作り上げたものだった。

 比古の剣尖が虚空を切っただけなのに萼片(がくせん。花を支える部分)から綺麗に刈り取られて、高い空に舞い上がる、花、花、花―――――………

 その中央に立つのは、ニヤけた貌でも、キャンバスや原稿に向かう芸術家の目でも無く、真剣な剣豪の瞳(め)だった。漆黒の虹彩のなかに、俺は在りし日の勝っちゃんをみた。比古の言う通り、署長になってからの日々が、彼を常人に貶めようとしていた。狂ったように俺を抱く勝っちゃんの肌から、勝っちゃんの苦しさが痛いほどに伝わって来て、体は喜ぶのに、心に辛さが降り積もって、あんなにも待ち焦がれた霧雨の夜が辛くなってきた。

 そこから逃れるようにして、比古の胸に身を預け、勝っちゃんへの想いと由美への想いで混乱した自分を、真っ白にしたかった。比古はそれを叶え、寝室で和室で、そして桔梗仙冬月を煌めかせた庭で、俺を抱いた。剣技のあと、苔むした庭に絨毯のように広く厚く積もった色とりどりの花びらの上で横たわった俺の姿が、「ラ・フロレゾン」である。

 当初は俺そのものの顔だったが、シークレットサービスの秘匿性を考慮して、俺と雰囲気が似ているとされる、元パリコレモデルの四乃森蒼紫の雰囲気を半分入れて、「ラ・フロレゾン」の商品化が始まった。始まった途端に、次々と注文が入り、新津覚之進のプロデュースをしているスタジオ縁(えにし)の回線がパンクし、「ラ・フロレゾン」専用オフィスが出来た程だった。

 今や、同シリーズは新津覚之進の代表作となりつつある。長年陶芸家をしているだけあって、描写が実写的で、同時に艶めかしい。それでいて、思った程いやらしさが無い為、ビルだろうがオフィスだろうが、どこでも飾られていた。流石に俺は恥ずかしくて、まともに作品を見ることは出来ないのだが、比古は俺が食べたり笑ったり、眺めたり眠ったりする姿をデッサンする為に、俺にこの屋敷に来るように言った。俺はいつでも仕事が優先だったが、シークレットサービス業務の後に、SLS AMGルマンレッド乗りたさにふらりと寄ると、「俺の絵は最高だがな、本物のお前のほうが数段良いぜ」とニヤける比古を本気で拒絶も出来ずに、抱かれるままになっていた。

 心底自分は、未熟だと思う。たった一人で数々の作品を生み出し、森や谷に入っては剣技を極める比古に比べれば、与えられた仕事をするだけの男だ。どうしようもないのは比古では無く、俺だった。比古は、自ら思考し自ら創造する。俺には、それが出来ない。生まれつき中途半端な体を持って、剣道も中途半端で、だからせめて仕事だけは手を抜かないようにと自らを叱咤していたのに、密命の筈のシークレットサービスの結果が、これだ。なのに、こんな俺を、全身全霊で比古は抱くのだ。

「……比、古…っ…」

 大きな掌が、再び泣いている俺の雄を慰める。抱かれながら、常に勝っちゃんの姿が細胞のすみずみから決して離れることのない俺を、恐ろしいほどに丁寧に抱く。俺が唇を求めると、啄むようなキスを繰り返し、性欲に耐えられなくなった俺が舌を出せば、思い切り吸って来た。同時に、俺のなかの比古がぐんと逞しさを増して、あまりの大きさに伏せていた目を開いて、思わず腰を浮かせた俺を逃がさないとでも言うように、比古は涙を零す俺自身から手を離して、俺の両膝の裏を抱え、猛る比古に俺を突き落した。

「あーっ!!!」

 突き落された、筈なのに。

 勢い良く振り落され、勃ち上がった比古を飲み込んでは離し、離しては包み込む行為を繰り返すうちに、血に塗れた俺の世界が比古の色に塗り変わって行くのが分かった。宝刀に刈られた花が舞い上がる、高く青い空へと。

 翼になりたいと思った。

 ルマンレッドに乗って、ふたりで高速を飛ばす時のように、笑いながら自在に広い空を駆けたかった。

 どうしてお前じゃないんだろう

 どうしてお前じゃ駄目なんだろう

 戦慄く指で凛々しい顔を包めば、俺の理想がすぐ目の前にあるのに。手を伸ばせば、きっとお前は真っ先に俺を抱きしめるのだろうに。

 己の忌々しさを吹き飛ばしたくて、俺は比古を求め続けた。比古は、ゆっくりと、じっくりと、熱く、激しく、俺を抱いた。俺は、比古の向こうにある遥かな世界を目指して、嬌声を上げながら比古を愛した。そんな俺を、比古も愛した。

 最奥に注ぎ込まれた比古の熱に意識を飛ばしそうになりながら、ついに体を支え切れなくなった俺が、後方に敷かれてあった布団に背中から倒れ込みそうになった時、比古の声が聞こえたのだ。



 お前の為になら、俺は御剣流だって捨てるぜ



 そんな馬鹿なことをさせる訳には行かなかった




あとがき(令和3年9月)
 この作品の舞台となった地域の近くにマンションを買いました。作成時期を振り返ると、ちょうど覆霞が香港に通った一年前でして、当時は文京区に住んでいましたが、徐々に治安が悪くなっていて、よそへ移るか迷い始めた頃でした。作中の舞台となった地域を歩きながら、「この辺りは凄く良いなぁ」と感激し、比古の屋敷の位置や間取りを妄想したものです。官邸からも近いから、ライラにとっても楽だろうと(笑)。AMGも待っているし。
 マンション購入の流れをくれた、この作品にはとても感謝しています。実は不動産業者のミスで、買える筈だった部屋を失ったのです。しかし「覆霞は絶対に、その地域に呼ばれている。だから絶対買える」と周囲からの後押しがあり、不思議に思っていたところ、同じ建物の、より良い部屋をより安く購入出来ました。2014年から呼ばれていたのか……当時は本当に何も知らず、のんびり歩いていた地域で現在暮らしています。聖書と仏教を混合するとこうなる、と思い知らされました。