しあわせに  なりたかった










天国への階段













Act.1

 都会の喧騒を遠く離れて、早数年。町といっても二十年前に村から町に名前が変わっただけの小さな町で、人口動態も穏かな、つまるところの鄙びたところなのだが、海辺ということもあり漁業で生業をたてている家が多いから、朝も早い。この町は、或いは夜明け前が一番賑やかかもしれなかった。むっとした潮の香りがなぜか爽やかに感じられるこの町が、俺は気に入っている。

「おはようでござる〜今日も良く晴れたでござるな〜」

「…はよ。お前のツラも、いい加減曇れよ」

「ひどいでござる!あんまりでござるよ斎藤!!」

 そのいいかたわ、と緋村は頬を膨らませる。付き合ってられっか阿呆、と俺はサドルに跨った。体が悲鳴を上げている。

「うっしゃ」

 ペダルに両足を乗っけて、腿に力を込める。緋村の、気をつけるでござるよー、の声を尻目に、俺のマウンテンバイクは坂道を降り始めた。濃い海風が額と頬を撫でていく。空と海のコントラストが一望できる町一番の絶景に、体ごと飛び込んでいける。

 ああ、いい青だ。





「精が出るな」

 背中から掛けられた声は、振り向く前にその主が分かるほど、純粋さに欠けて冷たく冴えている。闇に生きるためだけに誂(あつら)えられたようなそれには、飽きるほど覚えがあった。

「…あんたがこんなとこに来るなんてな」

「いかんか?」

「別に…」

 声を掛けて来たのは、この町の表裏を握っている山県有朋だった。表向き、この男は町議会議員を務めているだけにみえるが、裏では地元以外の大手金融業者らと関わって、公共事業を国から分捕ったり町の中小企業がつくる製品の卸先を有力企業に当てさせたりしているから、この町では町長よりも顔が利く。尤も俺の働く書店は、そんな人物が昼間から訪ねる場所ではない。

「お前の昼の顔もなかなかのものだ。そんな顔は初めて見た」

「…邪魔」

 俺は、今朝入荷した雑誌の束をよっと持ち上げる。かなりの重さなので、こういう仕事は俺のような体力の有り余ったヤツの仕事である。

「いつもつまらなそうにしていると思っていたが、そうでもないんだな」

 山県は俺の動きをいちいちついて回る。その姿を追う老店長の視線が怯えているのが、分かる。

「本の注文なら、店長にどうぞ」

「お前に頼みたい」

「生憎俺は、雑用専門だ」

「…つれない態度は、昼も変わらないか」

「………」

 俺はカッターでビニールテープを切り、雑誌を並べていく。注文されたものはカウンターの奥の棚へ並べる為、伝票をチェックして冊数を確認する。ん、大丈夫だな。

 と思った瞬間、俺は顎を掴まれて山県を見上げる格好を取らされた。息を呑んだ瞬間に蘇るのは、繰り返し三半規管に植え付けられた深すぎる声と、厚い唇の滑(ぬめ)るような感触。

「この目を他の誰にも見せるな。…いいな」

 黒い瞳をぎらりと光らせて、山県の太い指が俺のシャツの胸ポケットに引っ掛けてあった眼鏡をとり、俺にかける。山県の低い声が発するこんな幼稚な命令にさえ、今の俺には逆らえないのだ。

 腹の奥底から響くような声が、俺のなかに蘇る。――――その度に、俺は身動き取れなくなる。こいつの思うが侭に開かされて支配されていく。

 そんなふうになってしまっていた。心ではなく、躯が。

「…今夜も開けておけ。少し遅くなるかもしれないが」

 言いながら踵を返す。皺一つ無い背広のなかの屈強な背中の筋肉の動きが透けて見える気がして、両頬がゾクリとするのを俺は感じていた。瞼が震えた。

 午後三時になると、緋村と交代して俺は帰宅する。帰宅するといっても、洗濯して昼寝して起きればすっかり日も暮れて、小さな町の夜が始まる時間帯になっているのだ。





 カラン、と店内の暗さに比べて軽い音をたてて、ドアに引っ掛けられたベルが鳴った。照明がブルーで統一されていて、入ってすぐの階段を降りるとさながら海底から水面を見上げているような錯覚に陥る。初めての店にしては気に入ったと大久保は思った。

「いらっしゃい」

 カウンターの女が声をかけた。いかにも夜の街に相応しい濃い化粧の似合う色めいた顔をしている。好みではないが、顔を覚えさせるために、大久保はカウンターについて座った。

「水割り」

「はい…お客さん見ない顔ね。でも観光じゃなさそうね」

「まぁな。俺はここで暮らすことになった人間だから」

「あらそう。じゃ、明日も来て頂戴」

 笑いながら、女は水割りを差し出す。色めいてはいるが明るい感じを大久保は抱いた。しばらくの間、大久保は新入りということで店内にいた地元客やカウンターの女(ママとか姐さんと呼ばれている)と語り合った。時計が進むごとに店の中が入れ替わり立ち代り客が替わるのにも興味が惹かれた。ということは、この店は儲かっているということだ。

 午後8時。

「はぁ〜い、鎌足ちゃんでーす!」

 カラン、と扉が開いたと思ったら、こんな客も入ってくる。白くて細い足をマイクロジーンズから自慢気に出し、右手をこれまた細い腰にあて、左腕を天井に向かって伸ばすというポーズである。ホットピンクのTシャツを着た彼女の登場と同時に店内がわっと沸いた。肩よりも少し短い高さで切りそろえた黒い髪と長い睫が映えるきりりとした可愛い顔が印象的な女は、既に出来上がっている客に愛想を振り撒きながらカウンターに座る大久保の隣についていたがっしりとした体躯の男と大久保の間を割って入り、椅子に座った。

「安慈さん、オヒサ…それ美味しそうね。そういえばあたしもおなか減ったわ」

「…ツナサンドとサラダ、追加」

「それからオレンジジュース!由美さん、ツケといて」

「あんたいっつもツケじゃないの。いつ返してくれるの??」

「い〜じゃん別に〜」

 言いながら鎌足という女はぶぅと両頬を膨らませ、さらさらの髪を揺らして何気なく大久保のほうを見た。見た瞬間、彼女の表情がぱっと輝いた。

「やぁ〜ん、ステキなオジさん、いらっしゃ〜い♪」

 大久保は首に抱きつかれた。

「渋いっ、ステキッ、超好みぃ♪♪あたし鎌足、よろしくねぇ」

 鎌足は体を押し付けてくる。

「決めたっ!今日はあたしこのひとと遊ぶ!」

「ちょっと鎌ッ、ここで商売しないでって言ってるでしょう」

 空かさず由美が鎌足のTシャツをカウンターから引っ張った。

「あんっ、何すんのよぉ」

「お客さん迷惑してるでしょ。さっさと離れなさいっ…ごめんなさいね、このコ軽いだけから気にしないで…ほら鎌、席に戻って。酷いと追い出すわよ」

「……つまんなぁ〜い」

 諭されて鎌足は大久保の首根っこにしがみ付くのはやめたが、席には戻らず、大久保の膝の上に体ごと乗っかってきた。ちっとも重くない。

「でもイイ男じゃん。マジあたしと遊ぼうよ。安くしとくからぁ」

 ちょっと鎌、と由美が速攻で拵えたツナサンドをカウンターに出しながら言う。同時に、大久保は鎌足に答えた。

「悪いな。俺の体は女の子には反応しないんだ」

「……」

 鎌足はちょっと顎を引いて不思議そうな表情をした。由美は「あら」という顔になった。

「…オジさんゲイ?」

「まぁな」

 大したことではない。少なくとも、大久保にとっては。

「ふぅん…」

 言いながら鎌足は大久保の手を掴んで、Tシャツ越しに自分の胸を撫でさせた。女にしては妙な感触に、大久保は内心驚く。そんな大久保の表情の変化を、鎌足は楽しげにみているのだった。

「あたし女の子じゃないの。オジさんと同じ」

「…そうみたいだな」

 鎌足はどうやら正真正銘の男らしい。外見はどうみても女の子そのものだし、体つきもほっそりしていて、その辺の女よりも艶めいている。しかし、男なのだ、これでも。そして大久保はゲイだ。だから

「遊ぼっ!」

 きゃー、と言って鎌足が再び抱きついてきた。彼女、ではなく彼(?)のそんな様子に再び店内が沸く。カウンターでサラダをつくっている由美も眉を顰めつつ、しょうがないと溜め息を吐いていた。店内の照明の暗さを吹き飛ばすほどの明るさが、ここに宿っているらしいと大久保は思った。

 それからは鎌足も混ざってがやがや過ごした。鎌足は商売するというよりも誰かに相手をしてもらうのが楽しいようで、さっきのはご挨拶程度のものだったのかもしれない。

 大久保は自分が東京から来たことと、しばらくここで暮らすことを告げた。由美も東京から来たと言った。

「君は?」

 大久保が尋ねると、安慈は全国と答えた。運送業をしているうちにここへ来て、いまではこの町でただひとつの運送屋なのだそうだ。

「仕事柄あちこちを廻ったが…海はいい…波の音を聞くだけで心が洗われる気がする…ここの連中は夜のほうが賑やかだが、汚れていないと私は思う」

「海のお陰…とか…?」

「かもしれない…。…あなたは、何を?」

 なさっているのか、と尋ねられて大久保は文章を書いていると答えた。

「作家の先生? もしかして」

 カウンター越しに、由美が乗り出してくる。大久保は首を振った。

「いや、ただのフリーライター。編集長をしている友人から、お零れをもらっている」

「へぇ…」

 鎌足は既にカウンターを離れてテーブルに行って酒を注いで回っている。彼が廻るたびに鎌ちゃーんという声が上がる。鎌足もどこかから流れてきたそうだ。「どこなのかは知らない。ここでは過去は関係ないからね」そう言った由美の顔は、どこか誇らしげに見えた。





Act.2

 午後10時。

 流石に客層が変わってくるのが大久保にも分かった。安慈は一時間ほど前に帰った。店内の様子も趣向が変わり、鮮やかなブルーだった照明が更に深くなって、音楽もだいぶ落ち着いてアースサウンドになる。鎌足はカウンターの隅に突っ伏して眠っていた。

 大久保は注文を水割りからストレートに変えて、店の雰囲気を楽しむことにした。少し火照りだした体にとっては、鎌足のようなどぎつい明るさよりも今いる客層のほうがより相応しいような気がする。

 …取引…駆け引き…誘惑…情報…因果関係…秩序…無秩序…およそ普段表に現れることのない世界が時間差で繰り広げられている。それはここも東京も所詮同じか…そう思ったときだった。

 いままで聞いたことの無い不思議な音が、大久保の鼓膜を叩いたのだ。

「四乃森――――いる?」

(…?)

 大久保はとっさに振り返った。同時に、店にいた客もその音、声のした方向を見ていた。そこにいたのは、黒いTシャツとストレートジーンズを来た一人の若い男だった。

「今日は来てないわよ」

 由美が男に答えたところをみると、男は馴染みらしかった。由美の答えに、男は暗い照明下でもはっきりと分かる偽者でない色素の薄い指で、落ちてきた前髪をかきあげた。整えられた指先が照明を浴びて光る。年の頃合は17、8だろうか。

「そっか…」

 男はやや俯いて、黒い床をみた。白い肌にかかる睫が男の顔に影をつくる。次に男が視線を上げた瞬間、大久保の体は凍り付いてしまった。

(――――― !)

 金。

 瞳は金色だった。

(綺麗だ…)

 最初は照明の反射の所為だと思った。しかし男が階段を降りて大久保のほうに近づくに連れて、その金と照明とは無関係であることが分かった。カラーコンタクトのわざとらしさとは比較できないくらい、男の瞳は煌いているのだ。

 男は椅子に座ったままの大久保を一瞥すると興味など無いと言った表情に戻った。背丈は大久保より少し低いぐらいだから、日本人の中では十分に長身と言えるだろう。引き締まった体の線が黒のTシャツのうえからなぞれそうな細さである。

 少し乾いて皮が剥けた唇が映写機でみた映像のようにスローモーションで動くのが見えた。

「今夜じゅうに来たらいつものトコって伝えといて。それから表に三人ノシてあるから、恵も呼んどいて」

 低いくせに随分張りのある、響きの良い声だと思った。思わずゾクリと背筋を震わせてしまうような、快感。

「…分かったわ。なにか食べてく?」

「ん…今日は遠慮しとく」

「そう…」

「…じゃ…」

 言って男は元来た道を戻って店を出た。彼がいなくなった瞬間、それまで張り詰めていた空気が一気に解(ほぐ)れ、店内が少しざわめいた。

 大久保もほっと息を吐いた。彼がいた間中、大久保は呼吸をしていなかったらしい。

 忘れていた。出来なかった。あんな、あんな色を見せられては――――

『心が…洗われる気がする…』

 知らずのうちに安慈の台詞が蘇った。そう、さっきの男の瞳の色は、大久保の心を洗ってくれるような予感がしたのだ。

 ―――――救われたいのか? 俺は…

 眩しくて鮮やかな色。それでいて孤独さ故の悲しげな瞳。透き通った肌もしなやかに伸びる背中も、誰も寄せ付けないと分かっているのに思わず抱き締めたくなる。そうだからこそ俺は、

 惹き付けられたのだ。

「オジさん、あいつに手ェ出しちゃだめよぉ」

 眠っていた筈の鎌足がむっくりと頭を起こして、ニヤリ、笑いながら大久保に言ってきた。

「こわーいオジさんが、後ろについてるから」

「こらっ、鎌っ」

 由美が嗜める。鎌足はちろりと赤い舌を出して両肩を竦めた。大久保がバーボンと呟いて、由美はゆっくり注ぎながら鎌足に向かって溜め息をついた。

「まったくもぅ…あんた、いつ起きたの??」

 鎌足はグラスごと差し出されたポッキーを指先で掴んで軽く齧った。

「あいつが来たときに。すーぐ分かっちゃうの、あたしぃ。だってライバルだもん」

「…ライバル?」

「そ。“仕事”の」

「…そういう仕事をしているのか」

 口を突いて出た言葉だったが、鎌足に笑い飛ばされた。

「やーっだ、オジさんだめだってばぁ! 目ぇマジになってる…」

「そうか?」

「そんなトコロもステキィ♪でもやめたほうがいいってば。ここで暮らして行けなくなるわよ」

「…そいつはますます興が惹かれるな」

 大久保は半ば本気で言ったのだが、冗談とばかりに鎌足はゲラゲラ笑い出した。





 水滴がまだ滴(したた)る頭にタオルを引っ掛けてバスルームから出ると、一間しかない部屋の南側の壁際のベッドにバスローブを着た山県がいた。週刊誌を読んでいる彼に声をかけようとして、自分の声が掠れていることに気がついた。思わず喉に手をあてると、山県が顔を上げてさも意地が悪そうにニヤリと笑った。

「あれくらいで根をあげるとは、一人前とは言えないな」

「…よく言うぜ」

 俺の台詞に、山県は低く笑った。隅にある冷蔵庫から缶ビールを出して、一本を山県に投げた。パシッと音を立てて缶が山県の分厚い掌に収まるのを見て、俺もビールのプルトップを開けて喉に流し込む。良く冷えた液体はまだ火照りの取れない体を冷やしていく気がして気持ちよかった。

 山県は雑誌を閉じて椅子に置いた。それが合図のように俺の体がびくりと震える。そして山県は、彫りの深い貌に埋め込まれた黒曜石のような瞳で俺の変化を捕らえるのだ。

「来い」

「……」

 その声を聞いて、ふと思い出したことがある。

(――――あの男…)

 今日は山県が来るというから帰宅してからは出かけないようにしていたのだが、買い物からの帰りにこの辺では姐さんと言われている由美が開いているBarのある小路を通った。そのときガラの悪い観光客に絡まれ、…時間帯の所為もあっただろうが、ここはそういう町だ…ストリートボーイと間違われたらしく、「No」を言ったら殴りかかってきた。

 無論負ける俺ではないから、逆に叩きのめした。しかしそのままにするわけには行かず、Barの扉を開けて由美に、この町で曰くつきだろうと、どんな人間でも診てくれる恵という女医を呼んでもらった。序(つい)でに、山県の部下で若い男が好きという男から頼まれた小用も果たした。別に、こんなことは珍しいことじゃない。

 珍しいのは、カウンターに座っていたあの男だった。

 鳶色の、思わず撫でたくなるような細い髪が綺麗だと思った。白い肌の、彫りの深い目鼻立ちが印象的で。

 店内のダークブルーの照明を浴びた、澄んだ淡い色の瞳が俺をみて、みつめていた。たぶん、俺の目の所為だと思うけど、その視線がなんだか辛くて、とっさに目を反らせた。

 明らかな新参者、観光客とも違った。ここで暮らすのだろうか? 俺は馬鹿だ。名前さえ知らない男に興味をもつなんて…

 小さく溜め息をついて、バスローブを脱ぎながらベッドに近づいていく。ローブを脱ぎ捨てると同時に強い力で左腕を掴まれて、そのままベッドに仰向けに押し倒された。

 ボディシャンプーの香りがまだ消えない肌に押し付けられる厚い唇。自在に蠢きだしたそれに息を飲んだ瞬間体全体で反応した俺の背中とシーツとの間に太い腕が差し込まれ、動きを封じ込められる。…もうなにも考えたくはなかった。ただこうして、熱い咆哮に埋もれていくだけだ。

 そして今日もこうして更けて行く。俺の毎日に変化などあるはずがなかった。







天国への階段…2へ続く