soul



 師走も終わりの季節。

 木戸孝允は後輩を見舞うために雪の舞う都内の警察病院を訪れていた。

 患者の名は緋村剣心。神谷派出所で巡査を務めているが、ニ日前派出所近くで三人の暴走族と巡査の相楽左之介とがやりあっているところに止めに入り、暴走族を補導したのは良いが、数年前まで喧嘩屋斬左として名を馳せていた相楽の豪快な蹴りを喰らい、両脛をぽっきり骨折してしまったのである。何かと顔の広い親友の高杉晋作から情報を得て、木戸は彼を見舞ったのだった。

 木戸孝允。弱冠三十歳で閣僚となった現大臣である。留学から帰国後間もなく政界入りし、その生まれ育ちなどから早くも注目を集め「政界のプリンス」などと言われるようになった。タヌキやキツネ顔の群れるなかで木戸の品のよさを感じさせる美々とした容貌と程よい身長に相応しい細身の体や、神経質そうに整った顎や象牙色の肌に黒々と輝く瞳は政界を越えて、一般民衆からもプリンスと称えられるほどであり、事実彼が大臣に任命されてからというもの国会中継の視聴率が四十%近くにまで跳ね上がり、更に各大学では政治学科の人気が高まり、それまで政治の片鱗にすら興味を抱かなかった若者たちが政治学を勉強するようになった。急激に世論が政治味を帯びてきたことに海外メディアが驚いてゴールデンタイムにニュースをして取りあげられることもある。とにかく木戸が入閣してからというもの、日本の政治が良い意味で変革したことは確かだった。長い間低迷を続けてきた内閣支持率が八十%を越えていることは言うまでもない。

 木戸は明晰すぎる頭脳と丁寧な論理で内閣を先導している。彼の政治学が常軌を逸して余りにも清潔である為、汚辱にまみれること甚だしい政界では生きていけないのではないかという声が、(言い捨て)「逃げの小五郎」としてある意味有名だった彼の学生時代を知る者が、半ばやっかんでメディアに投稿していたが、木戸は一片も澱みのない水晶のような理念を胸に灯しつつ、己の足でしっかり政界に立っていた。過去とは別人のようにどっしり構えている木戸の姿が民衆から益々称えられているといった状況である。

 その彼が何の前触れもなく現われたのだから、若い看護婦・士は勿論、ベテランの連中までが大喜びして病院中が浮き足立っていた。緋村の病室を訪ねられた看護婦は彼の外見は勿論、紳士的な口調や素振りに、彼が去ったあとで膝を抜かし、一時ナースセンターが騒然とした。

 仕立ての良いバーバリーのコートを鮮やかに翻して微風を造りながら教えられた部屋番号を探す。緋村剣心様と書かれたプレートを見つけて、ノックした。

「木戸さん!」

 上半身は無事な緋村が目を丸くして、読んでいた雑誌から顔を上げた。

「晋作から聞いてね…大変だったな…」

 コートを脱いで部屋の隅に置かれたパイプ椅子を広げ、失礼、と断り腰を降ろした。両足がギプスで固定されている緋村は人のよさそうは顔をニコニコさせながら木戸を見、雑誌を閉じてテーブルの上に置いた。

「ご心配をおかけしました、でござる〜」

 閣僚として多忙な(それでなくとも几帳面な木戸なのだ。決して手抜きはしない)日々を送っている木戸が、スケジュールを調整してわざわざ訪ねてきてくれたことが、申し訳なく、また嬉しくもあり、感謝の念を込めて赤い頭をペコリを下げた。

「でも、このとおりでござるよ」

 頭を上げた緋村が調子に乗って、自由の利く上半身でマッスルポーズを取ってみせると、木戸はクス、と笑った。

「その分では、退院まであっという間だな」

「ハイ、でござる♪」

 木戸は緋村と同郷なのである。地元のプリンス的存在だった(今もだが)木戸と高杉を兄のように慕っていたことは当時よく知られていた。木戸が留学するまでは毎年会っていたが、この年にもなると流石に互い忙しい身となり、ここ十年近く会っていなかったから、会えて良かったと皮肉にも思いながらも、ニ時間前後語り合った。

 辺りが急に暗くなった。ロレックスを見ると、五時二十分を指している。

「すっかり長居をしてしまったようだ。緋村、疲れてはいないか。」

「いいえ、とんでもないでござる。…お会いできて嬉しかったです、でござる♪」

 そうか、と笑って木戸が席を立つ。きちんとパイプ椅子を畳んで元在った壁に立てかける。

「今度晋作にも来るように言っておこう…お大事に。」

 そういって木戸が病室を後にする。静かにドアを閉めた。コートを着て帰ろうとしたとき。

「!」

 背の高い痩せた男が漆黒のコートを翻して数メートル先をこちらへ歩いてきた。常人では醸し出せない雰囲気さえ伴っている。―――――静かな、それでいて彼の深層を垣間見た者のみが知りうる、……烈しさ……

 木戸の視線を感じた男が足元に落としていた目を上げて木戸を見た。

「!!」

 よほど驚いたらしく厳かな眼瞼を数秒間数えられるくらい開いて木戸の姿を認め、木戸からニ人分離れて止まった。

「…大久保…」

 優美な唇が小さく男の名を呼んだ。大久保と呼ばれた男は薄い灰色の目に彼にしては優しすぎる程の眼差しを湛え、眩しげに木戸をみつめた。

「木戸さん…」

 覚えのある低く深い声と暖かい視線が骨の髄までに吹き込まれるようで、木戸は正直言ってうろたえた。男のこういう雰囲気に今更ながら胸が高鳴る一方で、激しく狼狽する己の姿に絶望をすら感じ暗く沈んでいく。

「どなたかのお見舞いですか。」

 訊かれて木戸は我に返った。

「…ああ…」

  (声に力が入らない。)

 そうですか、とこけた頬を緩ませて男が微笑んだ。頭一つ分背の低い木戸は、真白い頚を襟元から露にして男を見上げる。何か話し掛けようと唇を開けると

「大臣っ」

 男の後ろから秘書の時山が急ぎ足で歩いてきた。男がスッと振り返り時山を見たときは瞳の色が変わっていた。

 時山は男に深く頭を下げて二人の数歩手前で待つ。

 木戸はもう行かなければならない。

「お元気そうで…何よりでした。」

 男が言う。「でした」と過去形だった科白に木戸の研ぎ澄まされた感性が絡み付いていった。

(過去…私は過去なのか…)

 戻れないことを誰よりも理解しているのは自分の筈だったのに。

 男が長身をゆっくりと折り曲げ木戸の前を去る許しを希(こいねが)う。口元を引き締め無言で肯くと、木戸は靴音を高く鳴らすようにしてその場を去った。




 政務を終えて省庁を出ると見慣れた赤いスポーツカーが横付けされた。音を立てて開いたウィンドウから高杉晋作が明るい容貌を覗かせて「よっ」と声を掛ける。

「乗っていけよ。」

 資産家の息子である晋作は木戸が公私共に頼りにしている男である。木戸が後ろを回って助手席に乗り込むとポルシェは快速に走り出した。

 行き先は二人が学生の頃からよく寄っていた老舗の料亭だった。高杉は元来こういうことの好きな男だったから、遊びのあまり得意でない木戸も彼のやることならと許容していた。料理と酒が入り上機嫌になった晋作がいつも持ち歩いている三味線を手早く組み立てて得意げに弾き唄い出すと、芸妓がやんややんやとはやし立て、豪奢に飾られた部屋は益々賑やかになる。そんななか、木戸が一人物憂げに箸を進めていた。

「幾松さんはお元気ですか。」

 話し掛けられて我に返ると、宙で止まっていた空の猪口に愛子という芸妓が 酒を注ぐところだった。

「…ああ…」

 彼はこの芸妓と共に勤めていた芸妓を嫁に貰っている。

(松子なんてどうでもいい。)

 別に彼女を嫌いになったわけでも疎ましくなった訳でもなく、木戸の脳は別の人物で支配されているのである。否、木戸自身で支配させしめていた。
 愛子の声が無機質になって彼の鼓膜から遠ざかる。脳裏に鮮やかに蘇る男の姿を、渇望する心が夢中で彼を追いかけ腕を伸ばして捉えようとする己の激情がみえて、目が眩みそうになり木戸は手で顔を覆った。




 木戸が自宅に戻ったのは十一時を少し回った頃だった。すっかり酔いの回った高杉を店主たちに任せ、一人で帰路に着いた。

 妻の松子は旅行中で帰っていない。酔う為ではなくひたすら時を費やす為に流し込んだ酒が体を軽く火照らせていたが、精神は北辺の海のように冷たく冴えたままだった。

 よろめく体を何とか支えながら服を脱いで浴室に入る。シャワーを浴びて全身を洗い終える頃には酔いがすっかり醒めて、応じたかのように緻密に造られた精神が動き出した。

 一人、照明の無い寝室に入る。松子が飾った絵画や陶器などは目に入らない彼の貌は、普段にも増して陰影が深く刻まれて、白磁の肌には翳りさえあった。
 横たわる。カーテンも閉めず黒い空を眼球に眺めさせて記憶をあの日へと遡らせた。

     *                *      


「愛しています」

 重ねたクッションに背を沈める大久保の胸に顔を埋め、疲弊しきった頭脳を休ませながらぼんやりと視線を彷徨わせていた木戸の耳が、その声が逢瀬の度に呪文のように繰り返されるあの夢みているようなものではないことを鋭く察知する。木戸は堕ちていきそうだった気力を振り絞って顔を上げた。

 大久保を真正面からみつめる為に体ごと離れ、伸ばした大久保の長い脚に跨る。木戸の動きに合わせて華奢な背中から腰に回していた長い腕が開き、閉じる。掌も酷く冷たい為、シャワーで温まったばかりの木戸の…先刻、決して手荒ではなかったが攻め立てた細腰をいたわる為に、直には肌に触れず洗い立ての真っ白なバスローブの上から、輪郭が浮き出しそうな骨盤をそっと支えた。

 大久保の瞳を見上げると、自分以外には決して見せない包み込むような眼差しが還ってくる。普段冷酷とか岩とか散々云われる大久保だが、己を見るときだけは瞳の色が明らかに変わるのだ。その瞳が殊更に優しく木戸をみつめてくる。情事の後は必ずこうやって木戸をみつめ、些細なことでも壊れそうなほど精巧で繊細な木戸を癒すのだが、今はどこか大久保の微笑が儚く見える。

(儚いなんて、こいつには最も似つかわしくない形容なのだが。)

「――――何だ?」

 掠れないよう声を低く抑えるようにして、木戸は問い詰めるようにして訊いた。

「愛しています」

 微笑したまま大久保が繰り返す。真実しか語らない眼差しが木戸を貫く。こんな胸の苦しさなど慣れた筈なのに…。

 大久保の掌がローブから離れ見上げてくる造形美の左頬を柔らかく押さえる。 

「貴方を攫ってしまおうかとも思ったのです。誰の手も届かない私だけの処へ攫ってしまおうと。」

 ――――入閣の話だ。

 情事の後の蕩(とろ)けそうな時空から木戸の理性が素早く現実へ引き戻される。

 政界のプリンスと称される木戸が来月の内閣改造で入閣する、という話題がメディアを飛び交っている。坂本竜馬総理大臣が就任直後に『プリンスを入閣させるキに。』と言った事が実現するという訳で、政界は揺れに揺れて、まだ正式に回答していない木戸のオフィスは連日メディアからの問い合わせやら政治家からの忠告やらでごったがえしていた。もちろん木戸は入閣するつもりである。

 しかし同時にメディアの興味の矛先は、目の前で微笑む大久保に対しても容赦なく向けられていた。

 大久保は早くから各界に巧みに取り入り、数年のうちに重鎮として名を連ねる程になった。とりわけ政界では人脈が豊富で、また本人の目が利くこともあって、一部の閣僚から入閣させるべきと熱望されている。大久保の政治学は現実的であると同時に高く理想を目指す。しかし余りにも現実味を重視する為に残酷、冷厳とされ、江藤法務大臣などは牙を剥き出しにして彼の入閣案を拒絶していた。

 ノイローゼプリンスと非人―――そう後ろ指を指される二人であるが、各界を覗いても彼らほど相応しい人間は見当たらない、と坂本は見ている。事実であった。大久保のオフィスにはメディアからよりも坂本(と坂本サイド)からの電話が多かった。

『おンしが居ると居らぬとではエライ違うんじゃッ。』

 …大久保もまだ答えていないことを木戸は知っている。その大久保から携帯に連絡が入ったのが接待に追われていた昨日だった。

 大久保の掌が僅かにずれて、親指の腹が思考する木戸の朱い唇を木戸を呼び戻すかのように右から左へと辿る。はっとして眼を合わせれば絶えることのない微笑…。

 静かに大久保が続けた。

「――――しかし私は見たいのです。清らに澄む硝子細工の如き貴方が、朝堂の光を浴びて彩色に輝く御姿を。」

 ――――ちがう。

 木戸は大久保の本心を悟った。常に冷然と構える大久保と、神経質なまでに細心を払う木戸。政治家としても実力が互いに同じフィールドで屹立しており、それゆえ弱年ながらも入閣を望まれている。二人の思考の崇高さは類をみないとされた。

 二人はしかし政治理念においては悉く対立している。公私を問わず政治観などで議論する際、両者は己を一歩も譲らない――――もしこの二人が同じ内閣に入り、かつ毎日のように肌を合わせていたらどうなるか。

 辛酸を舐めてきた大久保とは異なり、ただでさえ坊ちゃん育ちでプライドの高い木戸にはそんな生活は耐えられないだろう。大久保が言ったように、木戸は全身全霊が巧緻に造られた硝子細工のようであった。当人が命を懸ける政において、真っ向から対立する相手と向き合いそれでも尚激しく求めずにはいられないなど……無理であると判断するのが正しかった。もし無理を承知で遂行すれば、精神の脆い木戸は神経を使い果たししかし疲弊して撓(たわ)み泥のようになった自分を決して認めない。政界などという俗悪な世界で魚が水を得たように泳ぎまわれる大久保と共にいるようなことなれば、穢れていく自身をプライドが許さない。

 だから、己の純度を維持するする為に色を濁らせた結晶を自ら切り捨てるか、心そのものを狂わせるしか木戸には遺されていない。

 というのが大久保の思いだった。嘘を、木戸は見抜いた。

「貴方をお守りします。」

 冥界からの使者の如き声。いつの間にか大久保の指が木戸の髪を梳いていた。漆黒の絹糸が大久保の白い指間を滑らかに透る。

(…そんな眼で私をみるな…)

「貴方は今のまま――――純潔のまま歩まれるのが相応しい。」

 残酷な答えだった。言葉を喪った彼を大久保はいとおしげに目を細めて見る。

「何も心配なさらずに貴方の道を…お進みください。」

 道。

 それを聞いて木戸は反射的に大久保の黒いバスローブの胸元を両手で掴み、叫んでいた。

「何故お前はそうやって降りかかる火の粉を受け止めるっ?!」

 振り払ってしまえばいいものを!!

 大久保は微笑を戻し真顔になって己の為に吼えかかる木戸をみた。

(…止まらない。)

「何故お前はそうなのだ?!私が知らないとでも思っていたのか??」

 大久保は木戸がスムーズに政界で息ができるよう思いつくありとあらゆる裏工作を一手に負っていた。木戸の知らない処で。木戸に知(わか)らないように。

 それをこれからも続けると言う。政敵には回らず、自分はこれからも裏を生き続けるという。

(…お前の政治はどうなるのだ。)

 ローブを掴んだ形のいい指が、込められた力で一層白くなってゆく。

「正道はお前のほうだろうがっ!!」

 本心であった。自己にまで徹底する木戸は自分の思想と理念が潔癖であることを知り抜いている。澱みのないものであることを知っている。どころか、汚れてはいけないと固く信じ、その信念を自己の生活、人生においてまで貫こうとしている。これはプライド故であった。

 大久保の場合は違った。彼のプライドはもしかしたら木戸のそれよりも高いかも知れない。切り立った崖のようなプライド故に、理想を実現させなければならない性質であった。その為に自ら汚れることすら厭わない。政治は理想することではなく泥に塗(まみ)れながら創りあげること。これはむしろ大久保のほうが相応しく、本人の自覚もあるから政界から離れないのだろう。

 その男が己の道を棄てるというのである。

(お前はどうなるのだ。)

 木戸は端正な顔を苦しげに歪めながら問いただす。

「答えろ大久保っ!!」

 大久保が例の、包み込むような瞳になって真顔のまま応えた。

「貴方を愛しています」

 木戸の体から力という力が抜けて、大きな掌が木戸の背をローブの上から宥めるようにそっと押さえた。その温もりが暖めていく。傷つきやすい、心までも。

(ああ……)

 目の細かい理性という網から純白な感情が搾り出されるかのように、木戸の両眼から涙が溢れた。

 木戸の表情を静かに見ていた大久保の瞳が、滑らかな頬を熱い川が流れるのを追う。目の奥に焼きつける。決して忘れないために。

 ややあって木戸の耳元にそっと口を寄せ、乞うた。

「許してください」

 それが入閣しないことについてなのか、次に訪れる…最後の営みについてなのか、もはやどうでもよかった。

 大久保が木戸のローブを脱がせ、確かめるよう珠肌に触れる。傷つけないようにゆっくりと木戸を横たえると、果てしなく往来する南の波のような優しさで愛撫し始めた。




 魂までもが溶け合う。同じ時代に生まれたこともそれからのことも…すべてがこの夜に捧げられた。

 抱かれながら木戸は漸く気づいた。

(私たちはひとつだったのだ。)

 いつの頃からか、そうなっていた。摂理や思考を越えて、ひとつになっていた。

(だから離れることが肢体を裂かれるように辛いのだ。)

 だが今以上に近づくと、木戸が壊れてしまうことを大久保が察し、その大久保を木戸が察した。

 体が離れても心は離れないという。

(それは嘘だ。)

 と思う。

(もしそうならば……私は何故泣くのだ。)

 心と心が臨界を越えて求め合うことが叶わない。求め合えば、情愛が炎となって己の全てを焼き尽くすだろう。理性も知性も人生も。

 喪うことは木戸が最も怖れることであった。

(だからお前が去るのか……大久保……)

 “愛しています”

 繰り返される言葉は疑いようがない。そして木戸も大久保を愛していた。誰よりも誰よりも深く。

 底のない想いが恐かった。築き上げた結晶を優しく溶かしていこうとする大久保と、そんな彼に胸をうち震わせて喜びだす自分が、恐かった。

(攫ってくれと云えたら良いのに)

 その一言がどうしても云えなかった。

(大久保――――)

 木戸は想いを込めて大久保の首に腕をまわした。


     *                *      


(この部屋だ…)

 現実に還った木戸があの日大久保と過ごしたベッドの中で思考していた。精神がいかに疲労しきろうが、構わなかった。

 あの日以来、大久保が木戸に連絡を寄越すことはなかったし、政界の表に立つこともなかった。木戸からひたすらに姿を隠していた。入閣後、木戸は政論以外のことで神経を悩ませることはなく、スムーズに己の政治を展開している。大久保の工作のお陰であった。そんな彼の無形の愛情に報いる為にも、木戸は必死だった。

(…もう会わないと思っていたのに。)

 姿を目にした途端、張り詰めていた糸がふつりと千切れてしまった。

(殆ど変わっていなかった。)

 思い出すのは、大久保が抱えていた真紅の薔薇の花束。

(私のときは白だったな、いつも……)

『貴方の色です。』

 静かに晴れ上がった空に揺れるカーテンを背に、出窓にそのまま置いて、二人でいつまでも見つめていた、あの頃。

 暗い部屋の中、微動だにしない瞳が彼の哀(いと)しい想い人を求めて潤む。訪れることのない未来が欲しくて、木戸は苦しげに呻きシーツに顔を埋めた。





wanna take you...