SHOUROU no NE no KIYU MAE ni
updated on 29th Sep.2005 for St.Michael festival
揺らめく光はあたかも老い先短い己の命運のようだと木戸は思った。障子から漏れ入る僅かの風にさえ靡(なび)いてともすれば消え失せて果てよう―――――ありとあらゆる愚行と唾棄に塗れながらも漸く上り詰めその矢先に約束された如(ごと)失墜を繰り返す…
「!…離せ…っ」
それまでぼんやりと格子を眺めていた木戸の視界を、幽鬼の如く青白い肌が遮った。一瞬の躊躇すら無く男は木戸の額にかかった漆黒の短髪を掻き揚げ、印象的な薄い灰色の瞳で彼の貌を覗き込むと同時に、掴んだ細腕を今一度褥に押し付ける。
「何故?望んだのは貴方だったはずです」
私は応えただけ、と大久保は静かに続けた。しかしそれは彼の平時の極めて事務的な声と何ら変わりない、…否、普段のそれよりも猶冷めているのかも知れぬとさえ思う。
対照的に唇は人を斬ったときに流れ出る血の色だった。
「…木戸さん」
その唇がゆうるりと上下するのを見ていた。見ていた隙に、奪われた。
「…んぅ…!!」
注ぎ込まれる唾液。肌とは対照的な熱い舌に、木戸は僅かの精神を残してほとんど全てを絡め取られる。その間にも冷たい指が木戸の躯のそこここを辿り、辿っては戻り、翻弄した。既に肌蹴られた躯は部屋の夜気に蝕まれ、そして彼の丈夫とは程遠い細身が夜気とは異なる寒さに震えようとしている。
この男に喰われる恐怖と、自分が自分でなくなっていくような喪失感に襲われて――――――――……
「ど、うして…」
木戸の濡れた唇から漸く吐き出されたのは、強い憎悪の言葉であった。そして大久保の唇は木戸の形良い顎を辿り、首筋をなぞり、異様に浮き出た鎖骨を舐めた。同時に彼の骨ばった腕が仰け反った木戸の背中を支え、節ばった指が粟立つ生肌(きはだ)を愉しむかのように椎骨の連なりをなぞって下へ落ちていく。
つまり大久保の手は、木戸の劣情を翻弄する“かの場所”を目指しているわけであり、そしてこの男は木戸がそこを弄(まさぐ)られることを、口の割には嫌悪出来ずにいるのも経験とにより熟知し尽くしている。
細かい大久保の動きにいちいち反応する己の躯を憎みながら、一方でそんな大久保を急かさんとする感情を振り切るかのように木戸は口を開いていた。
「何故私なのだ!…お前は誰とでもっ……」
構わないのだろう、と、木戸は叫びたかった。
権力を手にするために、味方に引き入れるために、大久保はすべてのことをやってのけた。それは見事なまでに成功し、彼のもとへ集う輩が彼を裏切ることはまず無い。征韓論で下野した薩族は多くが西郷の息のかかった人間であり、近代化に向けて着々と歩を進めたい大久保にとっては、政府の要職に就けさせておくほどの人材は少なかった。
そして木戸は長州の徒であり、長であり、参議である。少なくとも明治政府を潰すことは企てない。よって大久保に組み敷かれる覚えはない。なのに大久保は、東京が静まる時間になると木戸邸を訪れ、さしたる議論もせぬままにこうして木戸を苛み続ける。甚だ解せなかった。
薩摩の稚児趣味は聞いている。大久保もそうであるとも。しかし、大久保が組み敷くほうなのか敷かれるほうなのかなどという話題への関心を抱いた覚えはなく、今後の可能性もない。
なのにこうして、夜毎組み敷かれるとは。
「……木戸さん」
大久保は木戸の胸に伏せていた頭を上げた。
「っ…なんだ」
上から覗き込まれたままの格好とはこの場に相応しすぎて反吐が出る、と木戸は思った。
「貴方は……」
大久保は言った。
ゆめみるような目線で。
「貴方は…私だけのものだ、初めて逢ったときから」
「!」
「誰にも渡さない。たとえそれが、貴方の維新を救ったと嘯(うそぶ)く細君だろうと冥界の人間だろうと。私の前を遮るものに、私は決して容赦しない」
「!!…、江藤もか!」
木戸が叫ぶとそこで初めて大久保の堅い双眸がひくりと戦慄(わなな)いたのが解った。
江藤新平、かの佐賀の乱で梟首刑に負された前参議兼司法卿。大久保と並んで国家を創世するだけの頭脳を持ちながらも同郷の有志らに担ぎ出されて、挙句極刑を架せられた。架したのは他でもないこの大久保である。
あれだけの男が長州に生まれたのであれば、彼は伊藤と並んで木戸の双肩たりえただろう。
木戸は彼の死を心底惜しんでいた。彼と江藤との関わりは決して情深きものではなかったにせよ、江藤という日本国には稀有な人材を喪ったことへの木戸らしい悲哀があった。外遊の経験がないことを微塵も感じさせぬほど欧米社会の知識に富み、法制顧問である雇い外国人に絶えず接触し、秀でた翻訳家を多数まわりに集めて、文明の無い日本に法制を齎(もたら)した。人民を第一に考えて政(まつりごと)をしたい木戸にとっては、江藤が日本にいるといないとでは世の展望が大きく異なっていた。たとえ征韓論騒動で下野して明治政府から追放されようと、江藤が日本に在る限り、日本が民主主義的法治国家を目指して行くことは充分に可能であった。
それを、明治政府の首たる大久保が斬り捨てたのである。大久保に言わせれば江藤など不要であった。勿論故郷で隠遁生活を続ける西郷や未だ独立国然としている鹿児島への警鐘であったことには間違いないが、大久保個人の感情として江藤という権力欲しさに征韓論を政府に叩きつけたような輩は排斥したかった。そもそも、法治国家を目指す政府がなぜ法律に基づく内政ではなく、他国の法律を犯す可能性の高い外征を行わねばならぬ。道理に合わぬではないか。つまり江藤の言う征韓論は必要に応じて遂行されたいものではなく、ただでさえ土台脆い政府を崩すための機会に過ぎなかったのだ。
だから潰した、と大久保は言った。木戸が、巷で流行している里謡を涙ながらに口ずさんだことを知った夜に。
恋の訳知りを
ジュリー(陪審)に立てて
粋な裁判をしてほしい
江藤は喜んでいるだろう、と木戸は涙を滲ませた。そしてしかし、と続けた。
『大久保、たしかに貴兄は正しいかも知れぬ。しかし、貴兄ひとりだけが正しいわけではないのだ。なぜ江藤を上手く手懐けなかった!さすれば貴兄の国家は国力と民権を以って燦然(さんぜん)と輝いていたのだろうに!!』
大久保は、そのとき木戸が握り締めた彼の手の甲が、憤怒と無念で力込められ白くなっていくのを、半ば恍惚とした思いで見ていた。
このひとは分かってくれていた…それが、嬉しかった。
すべては国のため未来のためと。
それを共有できるのは西郷を除いてはおそらくこのひとだけだろうと、大久保は確信した。
そしてその実、木戸を組み伏せるのは、政治的理由ではないことも。
「…なにを言われるかと思えば」
大久保は鼻で嗤った。
「すべて貴方の為だったのに」
台詞に、大久保の体の下で木戸の線の細い貌が歪む。いぶかしんで寄せられた眉が鋭く尖って、さながら流星のようだった。
煌く瞳に睨まれる快感が大久保の臍(ほぞ)を撫で、その奥に潜む欲望の端が頭を擡げそうになる。そんなことなど知らぬとでも言いたげな声で、木戸は大久保に噛付こうとした。そういう貌が更に大久保を昂ぶらせることも気付かぬままに。
「どこがだ、だいたい私は…」
「“あれ”は征韓論に乗じてこの明治政府を崩そうとした。貴方が日頃嘆かれるところの、長州の涙血が創り上げた政府を個人的な理由で無為にしようとしたのですよ、それに、」
木戸がその優艶な眦(まなじり)で彼の上で今にも木戸を喰らわんとする男の深く窪んだ眼窩を睨み据えると同時に、その男は髭をたくわえた唇を片端だけ吊り上げて世にも恐ろしいことを言ってのけたのだ。
「江藤の顔写真を山県君に携えさせたのは貴方だったではありませんか」
「………何?」
突然話題が自分に振られて、木戸は混乱した。
…江藤の、写真?
「何のことだ」
「お惚けにならずとも。お忘れですか?追跡のためには当人の写真を各府県に撒くという、下劣極まりない探索法を発案したのは“あれ”自身です。だから“あれ”の追捕のときには川路君が命じて、写真を探させました。しかしなかなか手に入らない。一同頭を抱えていたおりに、ふと山県君が、以前木戸さんのところで目にしたと言って来たので、彼に取りに行かせたとこる、貴方はすんなりと応じて下さったでしょう」
「そんな――――そんなこと、私は知らぬ。第一、私が江藤君の身を売る真似をするわけがないだろう?貴兄いったい、何をふざけているのだ」
「ふざけてなどいませんよ」
大久保は木戸の額にかかる漆黒の髪の毛を梳(す)いて寄せた。木戸はその手を振り払う。振り払ってから、大久保が木戸の腕をとっくに自由にしていることに気が付いた。だから、木戸が望めばいつでも大久保を張り倒してこの場を去ることが出来るはずだった。しかしそういう気を削ぐなにかが、大久保から発せられていて、木戸は大久保の思うが侭になるしかない。
男は木戸を見下ろしながら口を開いた。そこから覗いた舌が妖しいまでに蠢くのを、木戸は知っている。目を反らしたかったが、大久保の指が伸びてきて頬を捕まえられ、逃げることを許さなかった。
刺すような視線が痛い。
「私が嘘を言っているとお思いでしたら、山県君に尋ねられては如何ですか?彼はそのときの当事者なのですから」
「山県が…当事者…?」
脳裏に一瞬、暗い影をその双眸に宿した軍人の顔が浮かんだ。
木戸は記憶を辿ろうとした。記憶にかけては木戸の右に出る者はいない。まして木戸自身の経験であるうえは違(たが)うはずもない。
「……――――――」
しかし辿れない。なにか、どこか、靄(もや)が掛かっているようにその部分が掴めない。断片の境界は明瞭なのだが、中枢がぼやけて見えないために、薄い中央がその濃度を拡大して、明瞭のはずの境界までが霧散していくのだった。
山県が来て―――――なにか談笑して――――それから…
「……」
木戸が覚えているのはそれだけであった。
「…………」
いや、ひとつだけ、蘇ったものがあった。
三味線の音。
松菊はぁいなげにフレルとゆーちゃった――――――――
亡友・高杉晋作は酒に酔うと彼愛用の三味線を掻き鳴らしたものだった。酔っ払いの晋作のすることであるし、「フレル」の意味が見当もつかずまた記憶もないがために聞き流していたのだが。
…フレル?
「…大久保」
「なんですか」
応えた男は既に木戸の躯に舌を這わせる動作に集中している。そして木戸の白い腿を持ち上げて自分の肩に投げ出させ、大久保は貌をそこへ埋めていく。熱い舌が既に熱をもったそこを軽く舐め上げると、褥の上で木戸の躯がひくりと震えた。大久保はその震えさえも木戸の側から摘み取って、大久保に同化させてしまう。
腰を抱き締められる。そのときでさえ、大久保の舌が木戸の膚のうえをそれだけが独立した生き物のように蠢いた。
この感覚が、怯えなのか歓びなのかすら木戸に分からせぬままに。
いきが、くるしい。
「フ、…フレルとはっ…どういう…意味だ」
「………」
大久保の舌が止まった。次の瞬間そこが温かい粘膜に包まれ、きつく吸われていた。
「あぅ…!」
木戸は身を捩ろうとした。が、大久保の冷たい手に腰を掴まれて、動きを封じられる。大久保の口腔で木戸のそれはびくびくと踊り、大久保の喉を突き上げた。大久保は片方の手で木戸の腿を拡げ、他方の手で木戸のそれの根元を掴み、執拗に舐めている。溢れた精が大久保の唇と髭を濡らし、それでも止まらぬ液を大久保は指で掬って、まだきつく閉じられている木戸の秘所へ挿し入れた。
木戸の背が反り返る。痩せた体に浮き出た肋骨と骨盤を愛しげにみて、大久保は目を細めた。
やがて大久保の動きは激しくなり、木戸は大久保の口内へ放っていた。木戸は胸を大きく仰がせて、体が治まるのを待った。
大久保は木戸の呼吸が戻るなり、言ってきた。
貌が汚れている。木戸の所為だった。
「お知りになりたい?…どうしても?……ならば教えて差し上げましょうか」
大久保は上半身を起こして褥のわきにある盆を引き寄せた。
「さぁお飲みなさい。存分に準備してあります」
言うと、大久保は盆に乗せて置いてあった瓶を手にしてそれを自分の口に含み、木戸の細い顎を掴んで唇を合わせ流し込んだ。木戸は驚き、同時に大久保を突き放そうとしたがこの男のどこからそんな力が湧くのか、大久保は繰り出された木戸の両手首を片手で軽く掴むとそのままそれを木戸の頭のほうに上げ、自分は広くなった視界で木戸の傷ひとつない胸に貌を落とした。
「んっ……」
胸に触れた大久保の髭の柔らかさに一瞬震えた木戸は、その衝撃で彼に口移しに飲まされた液体をごくりと飲み込んでしまった。
「…!」
しまった、と思ったときには既に液体は食道を下っている。木戸が硬直している間に、大久保は木戸の胸の突起を舌で弄り、片方の手を木戸の下へ伸ばして濡れている木戸の先端を指先で弄る。その間にも木戸の体は流し込まれた液体によって、異常なまでの熱を帯びるようになっていた。
大久保は繰り返し、木戸に口付けて液体を飲ませた。吐こうにも、大久保は木戸が飲み込むまで口内を貪ることをやめなかったため、結局木戸は一瓶まるごと飲んでしまったのだ。
「な………」
痺れていく。呼吸さえ侭ならない。
苦しいような虚しいような世界が木戸を襲い、僅かに残った理性がぐるぐると回転を始めたその奥で、やがてなにかが爆発した。
「あ……」
緋扇(ひおうぎ)が。
「熱い……」
数多(あまた)の緋扇が一斉に開く。
緋扇の舞がはじまる。
木戸を誘(いざな)う――――――――
そして木戸の意識は、何者かによって封じ込められ、代わりにゆうるりともうひとつの理性が湧き上がってきたのが解った。
「……………江藤には…煮え湯を飲まされたからな」
…誰だ?
わたしにそう喋らせているのは、いったい誰だ?
「…煮え湯、とは?」
訊きながら、再び挿し込まれた大久保の指が木戸を深く突き上げてくる。唇がひらいてそこから声が溢れ、流れた唾液は大久保の唇に舐め取られた。舐めながら大久保は、木戸に次の台詞を求めているようだった。木戸は応えていた。…勝手に、唇が動いた。
「裏切ることはせんと言いおったのに…征韓論なんぞに組しおって」
そこで木戸は、自分の唇が、普段大久保のつくる冷笑と同じ形を描いていることに気が付いた。
そんなつもりはないのに。
自分は江藤を貶めるつもりなど毛頭ないのに――――――
「…それで?」
大久保はいったん指を引き抜いた。いつのまにか、指は二本になっていた。引き抜かれて崩れ落ちそうになった木戸の腰を片手で抱え、褥にうつ伏せる。そして蠢く双丘を指で拡(ひろ)げて、再びなかへ入った。
ああ……、と言ったのがわかった。しかしそれが普段の木戸なのか、それとも薬によって出でたものの声なのかは分からなかった。
背中に舌を感じた。木戸の熱はすでに大久保の掌を濡らしてしまっている。なのに応えた木戸の声は酷く醒めていて、僅かに残っているもとの木戸の意識は、悲しいと思った。
なのに唇は止まらない。
「写真を渡した。山県に」
「いけない方だ。こうやって山県君にも抱かれたのでしょう?貴方は」
「ふん…貴様にだけは…言われたくない台詞だな」
木戸はせせら笑った。
頬が緩むと同時に心のどこかが違う!と叫ぶ。叫んでいるのに、その声は力なく快楽のまえに滅びていく。
確かに…、と大久保は褥に顔を伏せて喘ぐ木戸の躯を抱き上げて、胡座した。自然、背を向けた木戸が大久保の上になり、今度は大久保自身を飲み込んでいく。木戸は、僅か一点に凝縮される彼自身の重みと大久保の怒張を受け止めるために下唇を噛んで耐えた。
「確かに、彼に指示したのは私でしたがね、この薬を寄越してきたのは彼ですよ」
すべてを飲み込み終えて、木戸は大久保の体に背を預けて深く息をした。大久保は木戸の背を唇で撫でながら、木戸の体の中心で天井を睨んでいる茎を優しく愛撫した。はっ…と唇が震え、木戸の両腕は大久保を求める。その腕を大久保は体ごと抱き締めて問うた。
「貴方は私を許され得(う)るか?」
「……さぁな…」
薄く唇を吊り上げた木戸の貌を想像した大久保は、促されるままに木戸の体を持ち上げ、抱合を開始した。
「私は貴方を裏切らない」
木戸はもう、言葉という言葉を発していなかった。躯の奥を貫かれ、揺さぶられ、いまにも弾けそうな茎を執拗に弄られては、挙げられるのは嬌声だけだった。対照的に大久保は、普段よりも怜悧な声で木戸の姿を追っていた。
「決して貴方を貶めない」
大久保の腕に抱かれて啼(な)いているのは、政府を嘆く毎日で有名な木戸孝允ではない。
在るのは、常に時代の先端に立つ孤高の剣士の姿のみ。
心を許すことをせず、
誰に屈することもなく、
両慧眼(けいがん)できりひらく、至高の魂だったのだ。
「木戸さん……」
大久保の声が聞こえているのかいないのか、木戸はやたら首を左右に振った。木戸はもう、何度放っただろう。彼の精を受け止めた大久保のシャツは既に脱ぎ捨てられて、いまやふたりは全裸であった。果たしてそのことに木戸は気が付いているだろうか、と思い大久保は苦笑した。
彼の黒目がちの瞳には、もはや現実の世界は映ってはおるまい。こうして大久保とともに肉欲に塗れてはいるが、薬が切れれば木戸は至高から墜ちて人間の殻を被る。いま彼は至高にある。だから現実が映らないのが当然なのだ。
大久保は、木戸の凛とした横顔が好きだった。
木戸は見た目確かに神経質そうなところはあるが、いざ付き合ってみると機嫌を損ねない間は案外気さくな男だった。だから然して気にも留めていなかったのだが、
『木戸さんとお仲が御宜しくておられますな』
情事のあと、そう言ってきたのは山県だった。
『…そうでもないが』
『では木戸さんとこういう関係は望んではおられないと、そう申されるとか?らしくない…』
『…なにが言いたいのかね』
『あのひとは、』
煙草を燻らせながら山県は言った。
『あのひとは時折フレルのですよ』
『…ふれる?』
『そう。気がふれる、のフレルです。だが別に怒り狂うわけではなくて、彼の本性が体ごと現れる……。かつては高杉晋作という男だけが、ふれた彼を拝むことができた。しかし高杉は死んだ。次は誰だろうと――――長州の人間は指を咥えながらに、天の声を待っているところなのです』
私もね。
と、山県は付け加えることを忘れなかった。
『ほう…』
『しかし、彼が選んだのは我々ではなかった。誰だと思います?』
『さぁな』
『江藤卿ですよ』
――――――――――瞬間、心が砕けるかと思った。
その後のことを、大久保はあまり覚えていない。山県はひとりでなにがしかを喋り、大久保の掌に薬包をひとつ置いて去ったようだった。
そこで大久保は漸く気がついたのだ。
自分は木戸を激しく欲しているということに。
そして大久保は山県から渡された薬を使って木戸をふれさせ、彼を抱いた。しかし抱きはしたものの、大久保の鬱憤は晴れなかった。ふれた木戸が許す男が、自分以外に生きていたからである。
大久保の脳裏に、男の貌がぼんやりと浮かんだ。
江藤はもういない。
大久保が殺したのだ。
大久保は、江藤が木戸に近づいただけでなく、木戸にあんな下賎な里謡を涙ながらに歌わせるほどに木戸の心を奪ったことが許せなかった。
たとえそれが政治的なものであっても。
たとえそれが、木戸のほうから許したものであっても。
そして江藤も、ふれた木戸に逢って、掻き抱くことを許されたのか。
そう思うと腸(はらわた)が煮え繰り返った。だから佐賀で起こった乱の始末に、江藤の首を採らせた。
『裁判長っ、私は!』
大久保はおもう。
木戸の孤高を侵すことは自らの命を侵すことだと。
かつて高杉晋作がそうだったように。
江藤もまた滅びなければならなかったように。
孤高とは、孤独である。孤高が孤高で在り続けるためには、誰とも組みしてはならない。だから高杉も江藤も死せざるを得なかったのだ。
だから―――――――と思う。
自分も彼がために消されるのだろうと。
「あんっ……ああっ…!!」
「木戸…さん…」
それでも手に入れたい存在が、腕のなかの彼であった。
たぶん、はじめてみたときから惹かれ続けていたのだ。命獲られるのを恐れて、己の気持ちに耳を塞いでいたのだ。
しかし江藤という政敵にもなりえない――――と大久保がとらえていた――――奸人にあっさりと彼を奪われて怒り、気が付いた。
この怒りは、孤高であるはずの木戸が孤高から墜とされたがために生じた想いであることに。
そして彼の孤高は誰にも穢させないと、孤高を護ると、誓ったのだ。
「ああっ……」
頂点が近い。孤高へと至る塔が自分にもみえそうだと大久保は思った。
そして木戸の魂を高き塔へと押し上げ、果てた。
君 永遠に孤高たれ!
「おはようございます」
声のした方に首を向けるとそこに大久保が居た。陶器の重なる音がする。
木戸には昨夜の記憶など無かった。あるのは、自分が何故この男と同室しているのかという疑問と、体が中心から切り裂けるかのような痛み。
起き上がれそうに無い。目が重い…辛い……
「御気分は如何ですか」
「………少し………頭が痛い」
体も。
そう言うと、常に何にも乱されず凛としている大久保の気配が瞬間和らぎ「お休み中は大層魘(うな)されておいででしたから」とさも慰撫するかのように、この男にしては珍しく情の篭った声音で言ってきた。
「ではもうしばらくお休みになられますか?この薬湯はよく効くんです」
木戸はその声を耳で流して大久保から天井、障子へと視線を移し、僅か開いている障子の隙間から伺えた雨空を投げ遣りに見る。そのまま、露に濡れて項垂れている朝鮮朝顔の花を目に映すと、近づいてくる気配を感じ疲れたように瞳を閉じた。
了