僕は子供たちが大好きだ。生気に溢れ、どんなことでも吸収して、毎日すくすく成長していく彼らの、きらきらした瞳が大好きだ。

 彼らを見ていると、天の恵みを感じる。

「松陰先生、さようならー」

「さようなら、気を付けてお帰りなさい」

「はぁーい」

 ぱたぱた…と小さな靴音を鳴らして、今日の最後のクラスの生徒が帰って行った午後六時五分。小学生だけの曜日は、塾が閉まるのは早い。

 僕は山口県萩市で、小中学生向けの学習塾を開いていた。教育学部を出て、当初は市内の小学校で勤めていたのだが、ほんの三年で小学校の勤務は辞めた。小学校の標準教育課程が、つまらなく感じた為だ。僕には、標準過程よりももっと面白く、もっと子供たちを伸ばす為の学習をさせる自信があった。

「あ」

 玄関掃除をする手を止めて、はっとした。

 あの子はきっと、まだあそこに居る。

 今は九月、さすがに夜六時となると、小学生の目には暗くなる。

「大変だ、急がないと!」

 靴だなから懐中電灯を二つ持って、僕は玄関を飛び出した。

 



      過日〜少年の日〜





 自転車に乗って県道295号線を走り、指月第一駐車場のところを右折し、ひたすら道なりに進むと、指月公園である。今の時期は十八時半まで営業しているが、あの子は営業時間の最後の最後まで入り浸る癖がある。塾では大人しくて利口なのに、木々に住む昆虫を探し始めると、庭だろうと森だろうと、どこまでも行ってしまうのだ。そう言うところは、珍しい研究をしている彼の父上に良く似ている。彼の父上は、世界でたった一人、抗がん剤も放射線も使用せずに悪性腫瘍を綺麗さっぱり、目玉から消してしまう眼科医なのだった。研究熱心なのは、実に良い事なのだけれど、

「桂くん!」

 案の定その子は、定位置に居た。公園内にある、左右に太い枝を伸ばしているクロマツの下である。彼はそこで、小さな手を懸命に伸ばして、幹の上のほうを見つめていた。

「しょういんせんせい、ぼくは、クワガタがみたいです」

「先週もここで、全く同じことを言っていましたよね、君は」

 仕方がありませんね、と言って苦笑した僕は彼の両脇に手を差し入れて、幹に沿って、小さな体をよっと持ち上げた。彼は小柄で、女の子のような顔をしている為誘拐などされたりしないだろうかと、ご両親も僕も、大変に心配である。当の本人は、そんな我々の気持ちをこれっぽっちも理解していないようで、萩市内を縦横無尽に冒険するのが大好きだった。

「あ、とれた、おおきいよせんせい!」

「どれどれ…本当だ、五センチはありますね」

 土の上に体を下した彼の小さな手の上には、綺麗に左右対称になったノコギリ。ノコギリクワガタのオスである。彼はこれがお気に入りだった。

 ノコギリクワガタは彼の掌の上で、もぞもぞ動く。そして、黒光りする虫体を桂くんが触ろうとしたところ、

「あっ……」

 薄い茶色の羽を広げて、飛び去ってしまった。小さな瞳が、残念そうにクワガタの軌跡を追っていった。軌跡の先で、空が紫色になり始めている。

「クワガタも帰る時間だそうです。僕たちも帰りましょう、桂くん」

「……はい」

 僕が手を伸ばすと、彼は先程まで大好きなクワガタを載せていた掌で握り返してきた。小さくて温かい手。

 空いている方の手で僕は自転車を押し、桂君は空いている方の手に、僕が持ってきた懐中電灯を持った。電灯をつけると、小さな虫が寄ってくるがあるが、桂君はそれを全然嫌がらなかった。御馴染みの僕たちの姿をみて、守衛さんが「小五郎君、また今度ね」と笑う。僕たちは、すっかりここの常連になっていた。

 左手首の腕時計が、午後六時半を指した。今頃、桂家ではこの子を探して、てんやわんやだろう。彼の家には、彼の御両親と伯母上と家政婦さんがいるが、漸く生まれた男の子が見た目の割にやんちゃ坊主で、可愛すぎて困っているようだった。小学生がいるにしては年の行った父上の理一郎氏の顔を思い出した。理一郎氏は医師なのに、植物にやたらと詳しかった。

 萩の帰路に草の香りがする。

 夏が終わって、秋になる。するとこの子はオニヤンマを求めて、また萩中を駆け回るのだろう。それを想像してそっと笑った僕を、小さな手のひらが、ぐっと引っ張った。

「どうかしましたか」

「せんせい、」

 桂くんは、突然立ち止まった。

「桂くん?」

「ぼくは、むしがすきです」

 続けて彼は、「むしをみるのはすきだけど、ころすのはすきじゃないです」と言った。

「ぼくはごきぶりもころしたくありません。でも、ひなたちゃんはごきぶりだけはころしなさい、っていいます」

 ひなたちゃんとは、十二歳年上の、彼のお姉さんである。以前、僕の塾に通っていた。なぎなたが得意で県大会で何度も賞を獲った。今は医学生だ。

「せんせいも、ごきぶりをころすのですか?」

「えっ………うーん……」

 何て答えにくい質問だろう。僕は、しかし、子供たちに嘘をつくのは絶対に嫌なのだった。それがこの子ならなおさらである。だから正直に話すしかなかった。

「そうですねぇ…、うん、僕も、殺していますよ。ひなたさんと同じです」

「……そう…なんだ…」

 桂君の、僕の手を握る力が少しだけ弱くなった。子供は、正直だ。

 僕は反省した。ゴキブリを害虫と見なすと、駆除せざるを得ない。日本でゴキブリを駆除しないのは、研究者やよほどの変わり者だろう。が、この子にとっては害虫ではなく、大好きな昆虫のひとつなのだった。

 クワガタ、てんとう虫、蝶々、カマキリに、蛍。

 どんな昆虫でもこの子は、きらきら光る瞳で、夢中になって見つめていた。だが決して、昆虫採集はしなかった。普通、男の子なら、捕まえた昆虫を親や友達に見せびらかそうとするものだ。桂くんは、そうではなかった。彼は、木や葉の上で動く昆虫が好きなのだ。

 生きている彼らが、大好きなのだ。

「せんせい」

 小さな瞳が僕を見上げてくる。

「やっぱりぼくは、クワガタもごきぶりも、ころしたくありません」

 鈴のような声が、紺色に染まる萩の空気に溶けて行く。

「ころさなくて、よいですか?」

 僕がにっこり笑って、「良いですよ」と答えると、彼は嬉しそうに「はい」と笑った。

 僕の手がぎゅっと握りしめられる。小さな足音が弾んでくる。軽やかなその音を聞きながら、心のなかで繰り返し、僕は呟いていた。

 やっぱり、この子なんだ。






 下関市にある木戸家に連れて行かれたのは、僕が高校三年の時であった。受験も終え、大学入学を控えた春休みの直前の日曜、僕はその人と会った。

 木戸総一郎。中国四国地方から東海までの財政界を支配する木戸興業グループのトップである。

 彼は僕が、自分の子供なのだと言った。子供の出来なかった吉田の両親に請われて、僕を養子に出したのだと。

 僕は愕然とした。同時に納得もした。僕は父母に全然似ていなかったし、妙に大事にされて育った一方で父方の伯父たちにからは、やたらと厳しい教育を受けたからである。彼らは僕に、「お前は負けることも転ぶことも許されんのだ!」と言い続けた。

 訳が分からなかった。しかし、これは僕に対する教育の一環だと取った僕は、どんなに厳しい言葉も心から、真正面から受け止めることにした。僕の事を真剣に思っているからこその。厳しい鍛錬なのだと思った。そうしてそれは、真実だったのだ。

 木戸家は、下関市に居を構える西日本有数の大財閥である。彼らには変わった風習があり、それは全国を対象に行われる養子取りだった。頭脳明晰で才能溢れる人物を、主に十代の頃に迎え入れるのである。

 僕は、逆の立場だった。

 総帥が言うには、松陰は自分の末の子だから手放したくなかったが、遠縁である吉田夫妻の人徳を信じて、一縷の望みに賭けたのだそうだ。

「だから松陰、見つけておくれ。お前の代わりに、この家に相応しい優れた子供を。私の代わりにお前が見つけて、私に教えておくれ」

 私はお前を、信じているよ。

 その言葉を頼りに、小学校で経験を積んだ僕は、自宅で学習塾を開いた。小学校に比べて、学習塾のほうが子供たちと触れ合う時間が短いぶん、関わりが濃厚で、かつ家庭的な側面を見ることが出来る。小規模の塾では、帰りが遅くなった生徒たちを僕が玄関まで送って行くことも出来る。家庭とは実に様々で、金だけあって愛の無い家もあれば、金がなくとも愛情溢れる家もあった。

 桂くんの家は呉服町二丁目にある、古い木造平屋造りの、落ち着いた建物である。父上は隣に「桂眼科医院」を開いていた。桂くんは良く、庭の植え込みのなかで昆虫さがしの探検をし、行方不明になっては家政婦さんを困らせていた。漸く生まれた長男を、桂家では溺愛していた。彼が少し病弱なこともあるだろう。彼が僕の塾を休むのは、風邪を引いた時だけだったが。

 小学生の割に落ち着いていて、同年代の生徒たちがワイワイお喋りをしているところでも、滅多に私語を口にしなかった。寧ろ彼らが賑やかにやる姿を、楽しそうに眺めていた。そんな彼は塾内でも小学校でも目立っていたが、顔の可愛らしさや背が低いことをからかわれても、つっかかったり、しょんぼりする様子は無かった。

 どんな時でも平静を保てて、周囲を良く観察する子供。そう言う印象を、僕は抱いていた。

 試しに僕は彼に意地悪をした。まだ教えていない漢字や単語が含まれた答えを書く欄をわざと、生徒が同時に行う試験の直前に、彼の答案用紙にだけ混ぜたのである。

 それが、埋まっていた。

 同時に彼の答案は今日まで一度も、二重線や消しゴムによる訂正が一度も無く、いつでも百点満点だったのである。

 やっぱり、この子だ

 お父さん、僕はやっと、見つけましたよ





 あれから、二十年以上の年月が流れた。相変わらず僕は萩で学習塾をしていて、萩も変わらずに時が止まったかのような静けさだが、テレビの中は連日大騒ぎだった。

 クワガタが好きだと言った少年が、日本と世界を舞台に、駆けまわっていた。

 僕の手を握っていた彼の小さな手のひらが、世界中の人の手を握り返していた。

 妖精のような容貌にIQ280の彼は、坂本龍馬総理大臣の良き相棒として、閣僚入りを果たしていた。剣道では鋭いが、討論ではさほど厳しい発言はしない彼に、議員や評論家たちは「逃げの小五郎」などと言って揶揄していたが、僕には彼の行動の意味が理解できる気がした。



 ころさなくて、よいですか
 



 いつの日でも、僕には君のなかに、少年の姿が見える―――――




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