+++++すみれ色の季節+++++

 高校を出て、俺は父が一代で築いた小さな貿易会社で働き始めた。大学進学を考えもしたが、妹たちはまだ幼く母は体が弱く、ただ一人の息子として父を助けたかったから、大学には行かなかった。大学に行きたければいつでも行けばいい、と言う皆吉の祖父の後押しもあり、父は俺が働くのを受け入れてくれた。

 親戚の殆どが鹿児島に集中していたため、修学旅行を除いて鹿児島を出たことは無かったから、父が俺のために貯めておいた学資の一部を使って、学生生活最後の春休みを山陽・山陰地方へ旅に出た。そこで訪れた萩の町で彼――――桂という少年――――に会い(会ったと言っても俺が一方的に彼をみたというだけなのだが)、…こんなひとがいるのだと、心が澄むような思いをして鹿児島へ帰ってきた。

 それから仕事仕事の毎日だったが、幸い順調だったことと、俺の性質がこの仕事に向いていたために、忙しいながらも充実した時間を送っていた。

 錆びた郵便受けにエンボス加工された招待状が届いたのは、秋の初めだった。

「インヴィテーション?」

 封を開けた俺は、家に茶を飲みに来ていた幼馴染の西郷吉之助が、俺の声に驚いて食べようとしていた煎餅を勢い余ってバリンと割る音を耳にした。

「…吉之助さぁ…」

「はっはっは、煎餅どんもびっくぃすっと」

 吉之助は笑いながら、割れた煎餅のかけらを口に運んだ。小さな溜息をついた俺の顔色を窺いながら。

「……どげんしたちいうとな」

 大きな瞳が黒曜石のように光る。俺は彼に封筒を手渡しながら、湯のみをもった。

 吉之助は手紙を手にし、ふむ、ふむ、と頷きながら綺麗に印刷された字面を追っている。そして

「おぃンとこにも来た」

 と言ったから、俺は更に驚いてしまった。

「吉さぁまで呼んで、何が楽しいんだろう…」

 少々の嫌味を含んで俺が言うと、吉之助はただでさえ丸い両目をさらに丸くして、また笑った。

「鹿児島(かごんま)中の男、集めっつもりじゃろ」

 これが吉之助なりの皮肉であると受け取れるのは真実、俺ぐらいだろう。

 俺に届いたのは、島津アソシエイツの大元・島津久光の主催で行われるという島津アソシエイツ何十周年だかの記念パーティの案内だった。

 島津アソシエイツは古くから鹿児島で実績を上げている興業グループで、戦後体力が衰える一方だった鹿児島県の財力そのものを地道に押し上げた功績をもつ優良企業である。自然に鹿児島随一のグループとなり、九州でも十分名が通るまでに成長している。島津は所謂旧華族の家柄なのだが、斜陽するどころか日本中に散らばって活動し、島津の本家が島津アソシエイツの大元を勤めていた。

 吉之助の家はアソシエイツ先代の島津斉彬と交友があって互いに信頼していたのだが、斉彬の異母弟の久光という男を好いていなかった。肉体だけでなく人柄までが大きい吉之助がジゴロ(=田舎者)と蔑むのは尋常ではない。

 確かに、先代は人柄も理想も現実を見据える力も出来すぎていた。出来すぎでいたばかりに、早死にしてしまった。そして島津を継承した久光は、人々の、斉彬に対する尊敬と期待が大きかったがために、矮小にみえるのである。吉之助は、矮小なひととなりというものを嫌悪していた。

 だが鹿児島における島津の威力は「平家にあらずんば人にあらず」で、こうやってインヴィテーションが届いては、断るわけにはいかなかった。吉之助の家も俺の家も自分の家族が暮らしていけるだけの小さな会社であり、九州を把握せんとする島津とは比べ物にならないこと甚だしいのだが、パーティとやらのためにたった一晩だけ、耐えようと思った。俺は仕事が一段落ついてから島津の舞台に出てもおかしくないようなスーツとコートを吉之助と選びに行った。

 招待状が届いて一ヵ月後。

 俺は吉之助とともに、錦江湾の臨めるホテル最上階へ足を運んだ。

 受付を済ませて会場へ入ると、吉之助が言ったとおり、鹿児島中の男と言っても過言でないほど大量の男たちが群れを為していた。グラスを取ってちらり、と会場に視線を走らせて分かったが、ここに居るのは、正確には会社社長の息子連中と、その姉妹たちだった。無論、島津関連企業の社長候補もわんさかといるわけで、つまり俺たちは彼らを目立たせるために呼ばれたようなものだった。

 吉之助もそれが分かったのだろう、大きな体を恥じるように背を丸めて、壁際のテーブルの前に立って人でなく料理を眺めて喜んでいる。やがてホールの照明がいったん落とされて最前部がぱぁっと明るくなり、島津会長(久光)らが挨拶した。スピーチは簡潔なものですぐに終わり、皆で乾杯して、ホールの照明が再びついて立食が始まった。

 ややあって彼らがざわめいたのでそちらを見ると、会長の二人の娘が登場して挨拶周りを始めたようだった。島津の本家は代々美人の出ることで有名なのだが、彼女たちも例に漏れず美しいと評判で、島津アソシエイツが話題としてテレビに出ると、俺の妹たちも綺麗、綺麗、と憧れるくらいである。尤も、俺は桂という…男だが…存在をみつけてしまったので、彼女たちは目ではなかった。

(つまらん……)

 俺はひたすら料理を掻き込む西郷と篠原を見た。篠原は俺たちの家よりもずっと大きな企業の息子なのだが、恐ろしく無口であり、こういう席は苦手としている。背も高くスーツがよく似合うし性質も一本筋が通っていて鹿児島的に好かれる男なのだが、どうしても会話が必要なパーティは蕁麻疹が出るほど嫌いだった。今日は、相手が島津だということで我慢して来たのだろう。ウェイトレスの差し出す水をせっせと飲んで、料理を味わってもいないようだった。

(やれやれ)

 と思いながら、俺がオレンジジュースを飲もうと(俺はまだ未成年である)壁際にあるサーバーへ歩いていったときである。

 とす、と腕に何かがぶつかった。

「…?」

 振り返ると、そこには少女が立っていて、申し訳なさそうにこちらをみていた。

「…すみません……」

「いえ、こちらこそ」

 言って俺は、彼女の後ろからずかずか進んできた男からよけるために、彼女の手を軽く引っ張って自分の方へ引き寄せた。男はこちらを見向きもせずに、開けられた通路をさも当然であるかのように胸を張って進み、ホールを出て行った。既に酔っているらしかった。

 俺は彼女の手を離した。

「……ありがとうございます…」

 彼女は少しはにかんでそう言った。大したことではなかったのだが、ふわり、と微笑まれて俺はかの桂少年を思い出してしまい、軽く頭を振って彼の残像を一時脳裏から追い出し、手にしていたコップにオレンジジュースを注いだ。その前に彼女もコップを手にしているのをみつけ、彼女に注いだ。

「…あの、私もそちらにお邪魔していいでしょうか……こういう席は…苦手で…」

 小さな声でそう言われ、俺は即了解した。各企業の息子たちが群れを為して島津や日本企業の現状を語り合う席よりも、運ばれてくる料理を無性に漁るホールの片隅のテーブルの方が、いかにもかよわそうな彼女に合うと思ったのだ。

 薄い上品なピンクのワンピースとジャケットのアンサンブル、粒の揃ったパールのネックレス、そして白のフォーマルバッグだけというシンプルな装いだったが、少女らしさと大人らしさが同居していて彼女に良く似合っていた。

 篠原ががっついていた皿から顔を上げて彼女を見ると、食べていたパスタがぽろりと口から零れた。篠原にしては珍しい反応に、俺は驚いてしまう。篠原はこういう女性が好みなのだろうか。美男美女でなかなかお似合いである。

 篠原のそんな様子をみて、彼女はくすくす笑った。男三人だけだったテーブルに花が咲いたようで、このパーティについて白けていただろう吉之助も、ほっと顔を綻ばせた。

 俺たちは自己紹介もせぬ侭に、あれこれ語りだした。好きな食べ物から始まって、好きな風景、好きな音楽、好きな色…それから星や森や山についてまで、会話上手の吉之助のお陰で俺たちの会話は心地よく続いた。

 パーティがお開きになる午後九時近くになって、島津の二人娘が近くにやってきた。エメラルドグリーンとマリンブルーの鮮やかなドレスがたなびいて、俺の横を挨拶もせずに通り過ぎた。

 パーティは何事も無く、俺たちが注目されることは無論無いまま終わった。

 俺たちはそれから二回、島津のパーティに呼ばれた。例の彼女と再会して、俺たちはまた四人で過ごした。彼女はいつも俺の隣でにこにこ笑っていた。

 俺の家にロールスロイスが横付けされたのは、それから一ヶ月後のことである。応対に出た父の様子が尋常でなかったため、いぶかしんで茶を出すついでに応接室の扉をノックした俺がそこでみたものは―――――島津久光だった。

 普段から落ち着いているはずの父が慌てふためいて言うには、この俺が島津本家の婿養子に選ばれたとのことである。訳が分からなかった。

「…なんのことです?」

「だから、お前を、島津の家に欲しいそうなのだ」

 父の言葉がたどたどしい。というよりも、この事象が俺には理解できなかった。

 何故俺なのだ。

 島津からみればあるかないか分からぬほどの小さな会社の、名も無いような、家格から言っても圧倒的に劣る――――篠原の方が絶対上だ――――家の息子が、なぜ島津の総本山に…

 それから俺の了解もないままに、家に島津の関係者が続々と入ってきて、小さな家が人でいっぱいになった。相手は島津で、俺は弱小会社の息子、妹たちも小さい、この家が潰れれば、家族が大変なことになる……

 それが分かって、俺は島津久光のもとへ行くことを決めた。相手はパーティの夜、煌びやかに目立っていた娘のうちのどちらかだろう。この際、俺のことはどうでも良い、と俺は腹を括っていた。

 俺は娘のどちらにも会わせられることなく一週間を島津久光のもとで過ごした。島津という巨大なグループだから、相当の数の人間に紹介させられると思っていたが、俺は島津の屋敷の離れで寝起きしてそこで仕事を教わり、島津久光とその夫人と、執事と家政婦ぐらいにしか会わなかった。

 これだけ大きな家の娘だ、きっと我侭で、俺なんかと会いたくないと駄々をこねているのだろう。

 そう思い込んでいた俺は、島津に来て一週間目の日曜日に、久光とともに黒塗りのロールスロイスに乗せられて出かけた。

 車は町の中心地と逆方向に向かっている。ははぁ、島津の娘たちは休日は別荘にいるのだ、などと呆れた俺の視界に見えたのは、白い壁の比較的小ぶりな二階建ての建物だった。どうみても別荘ではない。

『白坂病院』

 …病院?

 看板をみてふと立ち止まった俺を久光は振り返ることもなく、その建物に入っていった。俺も続いた。

 そして彼は階段を上がり、待っていた院長らしき人物に軽く挨拶して、ある病室の扉を開け、俺を中に入れた。

 そこに―――――島津のパーティで俺の隣で笑っていた彼女が、ベッドに起き上がってこちらをみていた。他の誰でもなく、俺を。

 久光は彼女を俺に紹介した。

「長女の、満寿だ」

 ―――――では、パーティの華役を務めた二人の娘は、次女と三女ということか。…あの二人がパーティの途中で俺の周りに来ても挨拶ひとつしなかったのは、ある意味俺の観察に徹するためだったのだ…

「…満寿です。よろしくお願いします」

 彼女にぺこりと頭を下げられて、俺も頭を下げた。

「今日はしばらく、二人で話でもすることだ。ワシは帰る…車はもう一台寄越すから、それで帰って来い」

 言って久光は、部屋を後にした。俺たちはぽつんと残された。

 俺はそこに呆然と立ち尽くすだけだったが、彼女は俺に椅子を勧め、座らせた。

「こんな失礼なことをして……申し訳ありませんでした」

 彼女は心底申し訳無さそうに、瞼を伏せた。パーティで会ったときは、目立たない感じの女性だったが、こうして見ると、凛としていると同時に何をも拒絶しない受容性が満ち溢れていて、さすが島津の長女と言った印象を受けた。ひたすら俯く彼女に対し、なんとか取りとめようと思って俺は言った。

「いえ、こちらこそ。貴女を島津のお嬢さんだと知らずにジュースを零したりと、いろいろしましたから、お相子にしましょう」

「………」

 俺の台詞に彼女は少し驚いたような顔をして俺の顔を見上げ、それからはにかんで小さく「はい」と言った。

 そして俺たちはたどたどしくも、話らしきものをした。いきなり連れてこられて、初対面でないにしても「話をしろ」と言われて吉之助のような特技があるわけでも無い俺が、なんとか時間を持たせたのだから、無口な俺にしては比較的よく喋ったのかもしれない。彼女の疲労も考え、俺は小一時間を病室で過ごした。

 彼女と別れた後、院長に聞いた。この病院は療養所かつホスピスなのだそうだ。彼女は、末期ということなのか。

 まだ十八歳だろう?

「………」

 いったん立ち止まった俺は彼女のいる病室の窓を見上げて息をつき、待っていた車に乗り込んで、病院を後にした。

 それから、毎日というわけにはいかなかったが、三日に一度は必ず彼女を訪ねるようにした。義父(久光)からそう言われていたし、別れ際の彼女の寂しそうな顔が忘れられなかったから…

 彼女の妹に尋ねたところによると、彼女が発病したのは十五のときだったと言う。悪くなったり良くなったりを繰り返しつつも、彼女は明るく振舞っていたそうだ。

「私たちの誕生日には、いつも贈り物を欠かさない…優しい姉なんです」

 島津は慣例として、息子ならば十五の年に、娘ならば十六の年に、所謂パーティデビューをするらしく、発病したのが十五だったから、島津満寿という女性は、世間の日の目をみないで来た。しかし、これ以上の回復は難しい、と診断されるまでは、彼女が妹たちより率先して、島津の娘として気丈に立ち回っていた。

「島津の長女は代々、紫色のドレスを着るんです。私と妹は、緑と青……紫のドレスは、お姉さまのものなんです」

 言って俺の義妹となった女性は、頬だけで笑った。彼女が見せた満寿の写真は、いまの彼女よりもきちんと肌色をしていた。

 毎回俺の目に映る彼女は、病室の壁の色に透けそうなほど、真っ白なのだ。

「………」

 義妹と別れた俺は、仕事をいったん休憩して、市内を歩き回った。

「こんにちは」

 ある晴れた日の朝、俺は彼女を訪ねて病室の扉をノックした。連絡を入れずに来たから彼女はやや驚いて俺をみた。俺は、胸に抱えてきた箱を彼女に差し出した。

「気に入っていただけるといいのですが」

「わたしに、ですか…?」

「少なくとも、びっくり箱ではありません」

「…まぁ」

 彼女はくすくす笑いながら、彼女の膝の上で、包装紙を開けにかかった。

 十秒後現れた白い箱に、彼女は目を見張ったように見えた。

「こんなに沢山…」

 彼女は箱に一列に並んだ小本の背表紙を丁寧になぞって、再び俺をみた。

 俺が彼女に贈ったのは、ピーターラビットの全集だった。

 自分に妹が三人いるだけあって、どんな女性でもこういうものが好きだろうと思い、本屋でみかけて、思い切って購入したのだ。一冊が短いし、重くも無いので、ベッドに横になったままで楽しめるのではないかと思って。義妹から彼女は動物が好きだと聞いていたし、たとえ既にもっていたとしても、病室には置いていなかったから。

「………」

 綺麗な絵が印刷されたボックスを彼女は愛おしむようにして見た。

「気に入っていただけましたか」

「…はい、とても…」

「それはよかった」

 俺が言うと、彼女はにっこり笑った。一瞬、彼女のつぶらな黒い瞳がじわりと滲んだようにみえたが光の加減のせいか気のせいだと思った。

 彼女は一日一冊ずつ読みます、と言って喜んでくれた。それまで距離的にとても遠いと感じていた彼女を、それ以来、俺は身近に思うようになった。尤も、妻というよりも、互いに初めての恋愛をするような感覚で…

 彼女のいる病院には、広い庭がある。街中から離れていることもあり、周囲は緑で溢れている。春になれば花も咲く。

 彼女はスミレが好きだと言った。なんてことない雑草のなかに、ひとつ凛と咲く花である。もしかしたらスミレの花の色と、島津の長女が着るという紫のドレスをかけていたのかもしれない。

 名前だけの結婚をして一月が経つ頃、病院にも春が来た。彼女はカーディガンを着てベッドから立ち上がり、窓の外―――――遠くの景色を眺めているようだった。

 俺は彼女に近づいて言った。

「行ってみますか?」

「…え…?」

 俺は彼女の返事を聞かぬうちに彼女の膝の下に腕を入れて彼女を抱き上げ、そのまま病室を出て、階段を降りた。当初体を強張らせていた彼女だったが、俺の脚が病院の庭を抜け、近くの小川のせせらぎが聞こえる頃になると、周りの空気に圧倒されたようだった。

 自然に出来た小道を降りると、一面の菜の花が俺たちを迎えた。

「あ………」

 黄色い世界のあちこちで白い蝶が舞っている。

 記憶に連なる彼の顔。

 お兄ちゃん、お兄ちゃんと呼ばれながら、彼は笑っていた。

 彼は今も、あの美しい萩の町で暮らしているのだろうか…

 俺が桂少年のことを思っていると、腕に抱えた満寿が「降りていいですか?」と言ってきたので、俺は我に返って彼女をそっと土に降ろした。彼女はすぐに菜の花のなかに溶け込んでしまった。

 なにもなくなった腕の感覚が大して変わらなくて。

 知り合って僅かの間に、彼女は痩せてしまったのかもしれない。

 俺は目の前にいるひとと、

 ひと目で好きになったひとと、

 いったいどちらを、大切にしたいのだろう…

 視界の先で、彼女が笑っている。あんなに幸せそうな笑みをくれる女性。病気で苦しいのに、きっといますぐにでも家に帰って普通に暮らしたいのだろうに、それを一言も口に出さないでほんの少しの幸せを全身で感じ取ろうとする彼女を、俺は振り切れない。

 振り切れない…




 俺はマレーシアに飛んだ。義父から彼を潰せと言われ、彼の正体を知り、それだけはできないと言えもしないで、別の仕事を無理やり作って、数日の予定で帰ってくる予定だった。

 ところが航空会社のストライキにかち合って、帰国が遅くなってしまった。そうこうしている間に彼女の病態が悪化し、俺が鹿児島に着くのを待っていたかのように、彼女は息を引き取った。

 俺は死に目に会うことも出来ず、だけでなく、彼女の亡骸に会うことも許されなかった。義父の怒りは大変なもので、俺は追われるようにして屋敷から逃げてきた。義父は、なにがなんでも自己流にものを進める男だから、俺をおいやっただけでは気がすまないだろうと判断した俺は実家に戻り、両親に事情を説明して、家族もろとも鹿児島から出ることにした。行き先は東京。島津とは一切関わりの無い人間を、吉之助が探してくれた。生まれ育った鹿児島を惜しんでいる時間は、俺たちには無かった。

 やがて着いた東京で、岩倉という京都出身の男のもとで、俺と父は働き始めた。家族がなんとか暮らしていければ、それで良かった。妹たちは慣れない東京で、とくに言葉で最初は苦労していたが、若さがものを言ったのだろう、次第に東京に馴染んでいった。俺はほっと胸を撫で下ろした。

 満寿の世話をしていた家政婦が俺を訪ねてきたのはその頃だった。

「洋子さん…」

「お元気そうで、宜しゅうございました」

「ええ、まぁ…」

 突然のことで驚いたのと同時に、俺は東京にいることを島津がかぎつけたのではないかと思い、不安と恐怖を覚えた。そんな俺の様子を窺ったのか、洋子さんは最初に断った。

「私は、お嬢様(満寿)が亡くなられてすぐに、お暇をいただきました」

「…そうでしたか……」

 洋子という女性を、彼女はとても信頼していた。なんでも、洋子さんは数十年島津家で働いていたというから、彼女にとっては家族も同然だったのだろう。そういえば、洋子さんはいつもニコニコ笑って俺たちを見ていたな…

 取り敢えず彼女に席と茶を勧めて、俺は話を聞くことにした。

「これは、生前、私がお嬢様から預かっていたものです。ご自分になにかあったら、誰にも言わずに、旦那様(大久保)に渡して欲しいと」

 言って彼女は厚い封筒と小さな箱を俺に出した。俺は尋ねる。

「まさか、これを俺を届けるために、わざわざ東京にまで出てこられたんですか…?」

 洋子さんは七十近い年のはずだ。鹿児島からここを探し出すのは、並大抵のことではなかっただろう。

 ―――――つまり満寿が彼女に託したものは、そこまでしなければならないものと言うことだ。

「これは……一体…」

 俺の質問を遮るように彼女は、ふぅ、と息をついて、話し出した。

「旦那様(大久保)のお姿がみえなくなって、どうしようと思っていた折に、旦那様のご友人の、西郷吉之助さんという方のお名前を思い出したのです。先代の大旦那様(斉彬)が(西郷)吉兵衛さんと仲良くされておいででしたから、もしやと思って、西郷さんの家を訪ねました…そこで、この封筒を吉之助さんに預かってもらおうと、お願いしたのです。でも、吉之助さんは、私が旦那様にもっていくべきだと仰って…」

 吉之助らしい…

 俺は幼馴染かつ親友の吉之助のことを思い出していた。本当に彼には世話になりっぱなしだ。鹿児島を出る寸前まで彼に手伝ってもらい、上京してからも助けを得た。まったく彼のお陰なのだ。

 洋子さんは続けた。

「ほんとう、旦那様にお渡しできてよかった…これで漸く、お嬢様の御役にたてました…」

「これは、何なのですか?」

「…さぁ……、私には、何とも…」

「………」

 口調からして、洋子さんはこの封筒の中身を知っているようだ。しかし彼女の口は堅く、俺はそれ以上を聞き出すことは出来なかった。

 それから現在の互いの状況を喋って、洋子さんは息子が暮らすという川崎へと帰っていった。

 俺は一息ついてから、洋子さんがもってきた封筒と小箱を開けた。

 封筒のなかには、大量の書類に添えるようにして、茶封筒が入っており、取り敢えず俺は茶封筒を開けてみた。

 そこには…






『 旦那様



 わたくしは幸せでございました。



 父の無理を、旦那様が卒なくこなしておられることを、わたくしは執事たちからよく聞いておりました。

 父のことは、どうかお許しください。昔は優しい父親だったのですが、わたくしが病気になって以来、すっかり神経質になったのです。

 今後、父が旦那様と旦那様の御実家になにかするかも知れません。ですから、お早く鹿児島をお発ちになって、父の手の届かぬところへお行きください。同封した書類と通帳と印鑑はわたくし名義の資産ですのでどうぞお使い下さい。弁護士の先生にもきちんと御話ししてあります。妹たちには、わたくしから良く言い聞かせておきましたので、なにかの折に妹たちに連絡をつけて下されば、必ず御役に立ちましょう。

 旦那様

 旦那様とお会いできて、わたくしは毎日がとても嬉しかったのです。三日と置かずに来て下さって、わたくしはなにも出来ないのに、贈り物まで下さって、嬉しすぎてきちんとお礼を申し上げることができませんでした。ピーターラビットの絵本も、花束も、ノートも、色鉛筆も、アメジストの指輪も、ペンダントも、わたくしはとても嬉しかったです。本当にありがとうございました。

 旦那様

 島津を離れられてからは、どうぞご自由に羽ばたいてください。島津に縛られていた分、いえそれ以上に、大きく飛び立ってください。父は不器用なので、旦那様にあまり声をかけたりしなかったのでしょうけれど、あの気難しい父が旦那様を島津の跡取りに大久保のお父様お母様からいただいた旦那様に、沢山の期待をしていたのだと思います。でもこれからは島津のためにではなく、ご自身のために、お過ごしくださいませ。

 旦那様

 いただいたアメジストの指輪は、わたくしがもっていってもいいでしょうか。旦那様のことを想って、いつまでもいたいです。ご了解をいただく前ですけれども、大切に致します。

 同封したアメジストのペンダントは、妹様たちにお譲りしたいのです。わたくしは、一度もお会いできませんでしたから、宜しければこれをわたくしからの贈り物として受け取っていただければと思います。三つに分ければ、とても可愛らしい宝石になると思います。

 旦那様

 できればこのことを、旦那様と向かい合ってお話しとうございました。ですが、いまのわたくしには出来そうにもありませんので、洋子さんに代筆してもらっています。この手紙と書類は洋子さんに預け、必ず旦那様のお手元にお運び致します。

 数ならぬ無礼をお許しください。

 旦那様と過ごした日々を、わたくしは忘れません。

 大切にしてくださって、ありがとうございました。

 いつまでも旦那様のお幸せをお祈りしております。

  満寿 』





『ほんとう…ほんとうですのよ、お嬢様は、嬉しい嬉しいと仰って……』



 アメジストがテーブルの上できらりと光る。

 俺はそれを握り締め、零れてきた涙を拭うことも忘れて、白い光の中、立ち尽くした。





 Sepiaを開く前に既に思いついていたストーリーです。いままで書いた女性のなかで、満寿さんは最強かもしれません。「旦那様…」の下りが頭について離れませんでした。やっと文章に出来ました。
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覆霞レイカ・ぷれぜんつ