遥かに遠き我が夢






 最後に空を見上げたのはいつだったか。どこまでも澄んだ群青の空が思い起こされて、いつしか、その青に私自身溶け込んでいって、骨も肉もなくなりそうで、
「とても遠い気がするのだ、なにもかも――――――」
 私がそう言うと、大久保は私の額にあった手ぬぐいを手にとって、私の首を静かに撫でた。彼の袖が動くたびに漂う紫煙の香りが、普段は嫌悪を抱かせるのに、今日は妙に心地よい。
「らしくないな……」
 私は自分を嘲った。唇が歪む。つられて歪んだ視界の横で、大久保が私に手を伸ばしてくるのがみえた。
 遠い。
 全てが。
 駆け巡ってきた記憶が次々と薄れてゆくのは仕方のないこととは言え、それが自身を定義づけるための記憶なのだから、致し方なかった。
 私はもうすぐ逝くのだろう。現在も過去も引き連れて、現世から去るということを常に意識していたとは言え現実に突きつけられるとなると流石に神経が研ぎ澄まされるようだった。こうして、普段は隠れているもうひとりの“木戸孝允”が姿を現してくるほどだから。
「木戸さん…」
 冷たい指が私の髪をかきあげる。
 “私”が彼をみるのも、今日が最後だと思うのだ。
「大久保」
 私は言った。
 瞬きすら重い。
「もしも世界を手にしたいというのなら」


「私を抱くがいい」


「あっ………!」
 勢い良く挿し込んで来た大久保の背中に思い切りしがみつく。彼のシャツが一瞬で皺に塗れ、それでも私が手を緩めることは無かった。
 彼の体に染み付いた煙草の香りが私を包み込む。もうこの体を感じることはないのだと思いながら、私は目を閉じた。


 無感動の天井をぼんやりとみながら思い出すのは私を抱いた男たちの顔――――――晋作、久坂、三条、岩倉、老公に山県……浮かんでくる諸々の顔。誰もが私を欲しいと言った。気紛れに現れる“私”を………「変化」の神秘が欲しいと言い……“私”と共に世界を築くと望み……しかし誰も果たせなかった。寧ろ“私”を手に入れたが為に彼らは崩れていく。
 ならば“私”が消えるほうがよかろうと思った。
 だから“私”は命じた。
―――有り余るだけの力を己から抜き取って後進に託し、木戸孝允(お前)はこの世を去れと―――
 そのことに後悔は無かった。日に日に衰弱していく木戸孝允の体をみても、嘆かずに“私”は安堵していた。これでいい。世に必要なのは権力者ではなく、国と民を守る力そのものであり、その力を僅かばかりでも増進できるなら、それに越したことはない。おそらく“私”の肉体には、世界を動かす力は大きすぎたに違いない。だから滅びるのは当然のことなのだ。先ほどの抱擁で私は、残っていたすべての力を大久保に移したと思う。余計に悔いは無かった。
 気配を感じた。大久保の指が額にかかった私の髪の毛を払っている。
 口が動いた。
「私は自らの命運が尽きることを悲しんでいるのではない」
 大久保は灰色の瞳で不思議そうに私をみた。
「時代に選ばれた者は時代に捨てられるのだからそれでいい。私はこの国の尽きることが悲しい………私にはみえるのだ、国中が戊辰よりも赤く燃え上がってすべてが無に帰するのが…なによりも誇り高き国であるはずの日本が焼失してしまう……それだけが………悲しい…」
「木戸さん……」
 大久保の顔が歪んでいる。そんなことは言うなとでも言いたげな、彼らしくない表情であった。
 私は命じた。
「だから泣くな。私が死んで、西郷が消えて、ほかに誰もいなくなっても、お前は泣くな。
 お前が泣かない分はこうして私が、」


「泣いているのだ」


 胸が痛んだ。もう動悸すら低く唸るだけだと言うのに。
 …否、私に動悸するだけの力が残っているということは、大久保への力の移動をしきれなかったということか。
「………済まない」
「なんです?」
 眉を顰めながらもやや血色が戻った大久保と対照的に、私は目の前が真っ暗になった。
 大久保を守れないかもしれない。
 次に権力を握るのはこの男だと言うのに。
「済まない」
「木戸さん、」
「私はお前を………守れないかも知れない」
 呟きながら私は、悦でも演技でもなく、本当に涙を零している自分に気がついた。
 泣いてはならぬ…! 無駄に力を浪費することに繋がってはならぬ!
「………」
 意気を上げても透明の液を流すだけの私の眦を、大久保は静かに拭うのだった。
「もう何も言われないほうがよろしい」
 歪んだ視界で、大久保は微笑んでいるようにみえる。冷厳とか岩とか称されるこの男が、その実は多彩は表情をすることを長い年月で私は知っていた。……そしてこの男を、鹿児島を除いて唯一、苦悩させてきたのがこの私であることを。
 とても下級藩士出身とは言えないほどよくの引き締まった顔は、長時間彼を論で叩こうとする私を前にするとよく歪んだ。長州人としての私が性に合わなかったのだろう。長州と薩摩はあまりに違いすぎた。互いに無理解を生みがちで、それが今回の(西南の)役を招いてしまったとも言える。
 故郷を失うのは大変なことだ。まして大久保と西郷は四十年来の仲ではないか……
「……済まない………」
 大粒の涙が零れ、私は布団の上で震えた。
 大久保は泣いていなかった。ただ、煌々と目を光らせて、冷たい掌を私の指に重ねてくる。
 一体どのくらいの夜をこの男と過ごしただろう。多いような少ないような、最後に残ったのがこの男だったような、複雑な気がした。こうして私の最期を看取ろうとする男なのだから、或いは、本当に沿うべき相手だったのかもしれない。私は鈍いのだ。晋作のときも江藤のときも、死んでから彼らの大切さを身に沁みる性質(たち)である。
 だが大久保は生きている。
 これからも生きるのだ。
 この男のために力を残し、そしていま私の命(めい)で、二度と泣けなくなった彼のために、私は泣いているのだから………




『時代に選ばれた者は、時代に捨てられていくんだよ…』
 彼の声が聞こえる。
 溢れ出る深紅の血が、彼の記憶までもを染めていく。
 大久保は手を伸ばした。彼が昇った空に向かって。
 五月の風そよぐ大地、地平線の向こうは澄み渡り雲ひとつない。
 おお群青!
 若色の夢よ!
 すべては手の届かぬ物語であったか………
 空の眩しさのなかに、彼の白い顔がみえた気がした。
 貴方と世界を作り上げることは叶わずとも、貴方と過ごす夢をみてここで眠ろう。
 貴方からいただいた力を国に還して………




 ふたりが描いた夢はいまもなお、東都の土に眠っている。
 遥かに遠き我が夢。


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ひるがのの様からいただいた御品で(勝手に)合作してみました。
木戸さん、微かに泣いておられるのです。
木戸さんの涙は何を意味しているのかと妄想しましたが、
最後の最後で二人は和解したと信じたい一心です。
ひるがのの様、どうもありがとうございました。
覆霞レイカ
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