AI to IU MONO
なければ自分で作るのよ
姉の名を、ひなた、と言う。
暖かい光を見ると私はいつも、例え暗闇にいようとも日向(ひなた)のように心のなかに光が降り注ぐように、との願いを込めてつけた、と父が言っていたことを思い出す。
私は姉が12歳の時に生まれた。姉は、私を限りなく可愛がってくれた。私が剣道を始めたのも、お下げ髪の姉がなぎなたをやっていた影響があった為だ。
男の子は剣道よ。お父さんに、小五郎は剣道をやりたいって、言ってみようか。
この一言で、私の剣道人生が始まったのだ。体が少し弱かった私は、とにかく心も体も強くなりたくて、道場に入り浸っていた。近所の剣道道場に通っていたが、そこから参加した小学生剣道大会県大会で勝ち上がっていった私を、山口市にある神道無念流山口支部の師範代たちが、スカウトしてきたのだ。
小学4年生だった。
突然訪れた世界に当初少し戸惑ったが、小学生らしい、ワクワクした気持ちのほうが勝った。
それからは毎週末に、バスで片道約一時間半の道のりを通う日が続いた。母に作って貰ったお握りを齧りながら、窓の外をゆく景色を眺めて、いつもとは違う町で大好きな剣道が出来ることを、とても幸せに感じていた。後になって分かった事だが、山口支部では萩市から通ってくる私の為に、それまで無かった時間帯に私の稽古時間を設けてくれていたのだった。稽古が終わるのは土曜日の午後7時だったが、JR新山口駅まで師範代のマイカーで送っていただいていた。良く考えてみれば、あれはかなり破格の待遇だったのだ。萩に着いてバスを降りると、父と姉が迎えに来ていた。この時すでに姉は医学生で、実家から大学に通っていた。
その翌年に全国小学生剣道大会に初出場し準優勝。それからは、あっと言う間だった。
中国四国地区剣道大会小学生の部 優勝
西日本ジュニア選手権 優勝
全国少年団剣道交流大会 準優勝
全日本ジュニア選手権 優勝
この頃から、私は「天才少年」と騒がれるようになった。中学生に比べて明らかに体の小さな私が、試合場を動き回るのが面白かったのだろう、会場には沢山のカメラマンと記者が訪れるようになった。それでも私は、気にしないことにした。剣道の基本は精神を統一させることであり、統一が出来れば、ギャラリーは見えなくなる。目の前の相手とその切っ先しか、見えなくなる。
私には神道無念流の鍛錬は合っていたらしく、肉体の疲れはあっても、精神の疲れを自覚しなくなっていった。相関して学校の成績も上がり、校内試験は常に一番か二番だったし、全国統一テストでは上位に食い込むようになった。父が眼科の開業医であったことから周囲からも「桂くんは将来医学部に入るの?」と言われるようになった。
それでも私は、剣道が好きだった。十三歳で目録に至っていた。
全日本剣道選手権大会で天皇盃をいただいた時は、海外からも取材が来た。大人の剣豪が参加する全国大会で、中学生だった私が二年連続で優勝したからだ。
木戸家からの訪問客が私の家に来たのは、その頃のことだったと言う。尤も、最初は父と木戸家が会い、しばらく後に私と直接会ったのだが。
父に伴われて、下関市にある木戸家の大邸宅を訪ねた際には、私の心は未知への期待と、神道無念流継承者となるかならないかの選択とで、相当混乱していた。混乱した心で木戸の総帥(当時)に会い、混乱が困惑に変わってしまった。木戸の総帥と言う人が慈愛溢れた瞳をした老人で、彼が私を養子に取りたいと言った張本人だったからだ。
彼はそれまで私が会った人物で、吉田松陰先生と同等か或は彼以上に、きらきらと輝いて見えた。神か仙人のように。そうして私は、ますます困惑してしまった。
剣道は続けたい。でも、木戸家にも行ってみたい。
一度木戸家に入ったら、たぶん帰って来られない。
総帥は、ゆっくり考えて欲しい、と言った。私は言葉を濁して帰ってきた。子供心に、木戸家がどれだけ大きな家かの想像がついたからだ。私の生まれ育った桂の家とは、まるで規模が違う。普通の家に、皇族や王族との親戚関係なんてある筈が無い。あんなに大きな門構えの、正面門から玄関まで車で移動する家なんて無い。あまりの格差に、ひたすら呆然としていた。しかし、萩の実家に戻って自室のベッドに沈んだ際に、寝転がって見上げた天井は無機質で、見慣れた筈のほっと心が和む天井では無くなっていた。
それまでの人生で、ここまで迷ったことは無かった。頭は思考を停止しようとしていた。いつしか私は、宇部市内で暮らす姉を訪ねて、高速バスに飛び乗っていた。
久々に来た宇部市は大きな町で、姉はそこの大学病院で働きながら、近くのマンションで暮らしていた。
大学を訪ねると、秘書の女性が出て来た。女性は、「今日は手術が無いから夜の7時には終わると思いますけど、ちょっとお待ちくださいね」と言って、マイクを取り、院内のどこかにいるであろう姉への呼び出しを行った。
眼科の桂先生、眼科の桂ひなた先生、眼科医局のなかで、可愛らしいお客様がお待ちです、至急医局までお戻りください、繰り返します、眼科の桂先生……
私は、ひなたちゃんを待った。私は小さなときから姉を、「ひなたちゃん」と呼んでいた。ひなたちゃんは、私にとって姉であり、一番近い友人だった。姉を待っている間、医局の秘書や医師たちがやってきて、私に茶や菓子を勧めてくれた。「おお、そっくり」「天才少年だよね。本物だ可愛い…」などと言いながら。
五分もたたないうちに、各医局が連なる研究棟の廊下を、ひなたちゃんは走ってきた。白衣を翻し、綺麗に内巻きにカールさせた髪を揺らして。彼女は私に両腕を伸ばして私を抱きしめた。
それを見ていたらしい眼科の教授がやって来て、私たちを医局内の応接室に連れて行った。そこでひなたちゃんと私は話をし始めた。
ひなたちゃん、僕、どうしたらいいんだろう
木戸家の事で、迷ってるんだ?
……うん
剣道の事でも、悩んでるんだ?
…うん。ひなたちゃん、僕まだ何も言っていないのに
分かるわよ。姉弟だもの。
ひなたちゃんも、悩んだことある?
沢山悩んだのよ、今の小五郎と同じくらいの年の時。
ひなたちゃんは立ち上がって、応接室の壁際にある書棚に向かい、一冊を取り出した。
「これ、見たことある?」
姉が差し出したのは、第85期眼科講座、と書かれた古いアルバムだった。医局員たちの集合写真や手術中の手術室の写真などが沢山貼ってある。
ひなたちゃんが、アルバムの真ん中あたりをぱらりと開いた。
そこには、桂理一郎(りいちろう)、若き頃の父の姿があった。白衣を着て、今のものとは異なる縁の太いメガネをかけ、胸の前に表彰を掲げている。表彰状には英語でこう記されていた。
Riichiro Katsura M.D.,Ph.D.
The First Prize of International Nature-Medical Healing Conference in Sao Paulo
――――――え
父さんが、国際会議で第一席を獲っていた…?
英文の意味が分かった私は、ひなたちゃんを見上げた。
「ひなたちゃん、これ……」
「父さんはね、この研究でとても有名になったの。でも、当時の日本の医学の流れと真逆でね、日本の医学界に、潰されそうになった。だから大学の研究をやめて、いまの家(うち)で開業したのよ」
ひなたちゃんは、父は手術も化学療法も使わない眼球内の悪性腫瘍の治療についての研究論文を発表し、臨床試験に成功していることをブラジルで開催された国際会議で発表した、世界中から喝さいを浴びたが、日本を含む先進国の医学界からメディアを使ってしつこく攻撃された、と言った。大学は父を守ろうとしたが、日本の厚労省は全く父を救済しなかった為、大学と大学病院を守るために、父は大学を去ったのだった。
瞬間、
脳裏に、顕微鏡と向き合う父の姿が浮かんだ。
暗い廊下の先、父の書斎からの灯りが漏れていて、そっと足を忍ばせて近づき扉の隙間を覗き込むと、父がいた。
普段、私たち家族や患者に見せるのとは全く異なる、きりっと引き締まった真面目な顔で、父は顕微鏡を覗いては紙に何かを書き留める、と言うことを繰り返していた。小学生だった私には、それが何の仕事なのか皆目見当もつかなかったが、私の視線に気づいた父が椅子から立ち上がって、私を呼び寄せ、私を膝に乗せ、顕微鏡のレンズを覗き込ませた。
赤紫色に染まった組織が見えた。
父の、これは癌細胞だよ、と言う声が聞こえた。
これが眼球の中に沢山出来ると、その人は目が見えなくなってしまうんだ。だから、早く取り除かなきゃならない。でも、それは片目を失うことになってしまうんだ。
父さんはね、癌細胞を普通の細胞に戻す植物を使った治療の研究をしているんだよ。
言って父は、綺麗なカラー写真が掲載された雑誌を私に広げて見せた。そこには、濃いピンク色の花を咲かせた樹木があった。
TAHEEBO
学名をタベブイア・アベラネダエと言うこの樹木は、アマゾンの先住民から「神の光」「神の恵み」と言う意味の「タヒーボ」と呼ばれ、古代インカ帝国時代を含めて数千年間、利用されてきたと言う。具体的には、タヒーボの内部樹皮を煮た煮汁を、お茶にして飲む。純粋なその茶を飲めば、腫瘍が小さくなったり、消えたりするそうだ。
父は顕微鏡の上のプレパラートを別のものに変えて、私に再び見るように言った。レンズのなかには、先程の細胞とは違うものが見えた。癌細胞が線維化して、つまり、癌が癌で無くなっていた。
父さん、これ凄い!
私は興奮した。父は相変わらず穏やかだった。
そうだよ、凄いね、この木はとても凄い木だ。この木の治療を求めて、患者さんが来ているんだ。父さんは、あの人たちにも、父さんや小五郎が見ているように、普通に目が見えるようになって欲しい。
父は、たとえ何があっても、自分はタヒーボをきちんと使う治療をしたい、と続けた。
幼かった私にも、それが普通の道でないことは、何となく分かった。普通なら、有名になればなるほど新聞雑誌が騒ぐし、テレビに頻繁に出演することもある。知名度を利用して大学の職員になり、更に人を呼ぶことをする。だが父は決して、そう言うことはしなかった。彼はひたすら、診療と研究をしていた。
けれど患者は、父を選んでいた。
だから、萩市の個人医院と言う、大都会とはまるで違う環境に、全国から患者が押し寄せて来ていたのだ。小さな医院は殆ど毎日予約が満杯で、市内のタクシー数が以前の倍に増えたという噂があった。対照的に、他の個人医院はどんどん閉院し、昔からの公立病院と個人病院が残る程度になっていた。この医院には、眼科患者だけでなく耳鼻科や内科患者も多数来ていたのだ。私の家には、眼科医の父と、看護師の母と、姉と私と、医療事務をしている母の妹(私の叔母)の他に、週に三回家政婦が通ってきていた。それぐらい、多忙だった。多忙さに相関するように、私の家には、全国から送られてくるお歳暮で溢れていた。
患者やその家族、あるいはあちこちの病院などからひっきりなしに送られてくるそれには、毎回のように父宛の手紙が添えられていた。すべてが父への感謝の言葉で埋められていた。父の御蔭で失明せずに済んだ、とか、治療に希望が持てた、と言った温かい言葉が丁寧に綴られていた。何故それを私が知っていたかと言うと、父は送られてくる手紙や葉書を、ファイルしたり自宅の壁に飾ったりしていたからだ。
あの手紙や葉書は、国内の医学界に見向きもされなかった父にとって、現実と未来の象徴だったに違いない。父は、毎週日曜日は仕事も研究もしないで私の相手をしてくれたが、気が付くと、葉書で溢れた壁を穏やかな瞳で眺めていた。そんな父の姿を、姉も見ていたのだろう、私が中学に上がる時には父の後を継ぐと言っていた。
ひなたちゃんは今、大学でタヒーボの研究を公式に行っていると言った。父のように世間から隠れて秘密裡にではなく、研究結果を論文にして国内であろうと国外であろうと必ず学会に発表すると。父が学会ではなく国際会議でしか発表出来なかったのは、様々な圧力があったからだそうだ。だが今は、その頃と時代が違う。権威あるとされている学会や雑誌の権威が、怪しまれている。患者側は、抗がん剤を信じていない。
「だから平気。それに、患者さんが待っているからね」
私には彼女が、ひなたそのものに見えた。
ひなた と
父が姉を名付けた理由が、やっと分かった。
「小五郎、」
とひなたちゃんは続けた。
「道が無ければ 自分で作るのよ。
誰も歩いたことの無い道なら 自分でそこを道にするの
踏みしめたり 自分が泥をかぶったりするから大変よ
でも大丈夫
私と小五郎は父さんの子供だもの、必ず出来る
だから、いってらっしゃい
私と父さんと母さんは、ずっとここにいるんだから」
笑って、ひなたちゃんは拳を作り私の胸を軽く小突いた。そして私は、決めた。
晴れた春の日、私は竜馬に誘われて彼の車に乗り、千葉県の山奥に来ていた。どこへ行くのか尋ねても曖昧に言葉を濁したものの、彼はまったく普段通りで、てっきり私は、彼の好きな海岸線ドライブかと思ったのだが、この日は山道をどこまでも走って行った。
左右をいく桜並木を通り抜けると、山小屋のような家が見えた。竜馬は、メルセデス・ゲレンデヴァーゲンを駐車場に止めると、私を連れて大きな引き玄関の呼び鈴を押した。
出て来た人を見て、私は雷に打たれた気がした。
柿谷正二(かきたに しょうじ)氏は、顔のほぼ全体を包帯で覆っていた。だけでなく、彼の両手両足の衣服の裾からも、包帯を巻いていることが見えて取れた。
柿谷氏に誘われお邪魔した家には、彼と彼の両親だけが暮らしていた。家の壁には、全身が異常な程に真っ赤な赤ん坊や、子供の写真がところ狭しと張られていた。
言葉を失った私は、しかし、彼がどんなに両親から大切にされて来たのかを、肌で感じていた。彼の両親は穏やかな、ごく普通の人たちだった。坂本先生と木戸先生の大ファンです、本と写真集を全部持っています、と緊張した表情で言ってくれた。
竜馬は慣れた様子でリビングのソファに座ると、今までに柿谷氏から送られてきた手紙を、私に見せた。
柿谷氏は生まれつき、正常な皮膚が出来ない病気で、全世界的に治療方法が無かったため、当時海外で開発段階にあった治療薬を試したそうだ。それは、未熟な皮膚を正常な皮膚と化することの出来る薬、と言われていたのだが―――――
皮膚は、出来なかった。
いくらその薬を赤ん坊に塗り付けても、皮膚は真っ赤のままで、漸く薄い表皮らしき細胞が出来るだけだった。開発は、失敗だったのだ。結果として柿谷氏は、不完全な皮膚に全身を覆われたまま、成長するしかなかった。
普通はあるはずの皴が無い。第一、皮膚の色をしていない。全身が常に真っ赤だ。彼には、乾燥や気圧から体を守ってくれる筈の、正常な皮膚が無いのだ。
幼稚園にも通えなかった。学校に行ったことは一度も無い。公園にも、スーパーにも、土手や川沿いにも、無い。
楽しみは、読書とテレビ、そしてインターネットで、外の世界を知ることだと言う。そんな柿谷氏が、竜馬を知った。彼は竜馬に手紙を書いた。竜馬の故郷である高知県の海を描いた水彩画を添えて。
彼の描いた絵は素晴らしいものだった。
外の世界に触れたことの無い瞳が映す海はこれほど美しいのかと、竜馬は心を奪われた。そして半年ほど前から、柿谷氏と直に交流をしてきたそうだ。
柿谷氏は楽しそうに、彼の描いた絵画や撮った写真を私に見せた。私が昔昆虫を好きだったことも知っていて、だから、庭に来たカマキリの写真も沢山撮っていた。
その中に、鹿や野兎と言った野生動物の写真も混じっている。
「僕の友達なんです」
包帯だらけの顔が言った。
「この子たちは、僕を怖がらないで、僕に会いに来てくれます」
私の頬に、涙が零れた。
道がなければ 自分で作るのよ
政治家になると、決めた筈だったのに。
柿谷氏を眼前にして、漸く分かった。
私は、姉や父に押してもらった背中で選んだ道から外れて、自分の幸せに邁進してしまっていたのだ。
大久保を愛している。大久保に愛されている。仕事でどんなに辛い目に遭っても、大久保がいる。これがどんなに有難い事か、彼と一緒にいて、痛いほどに分かっている―――――つもりだった。
だがそうやって私が大久保と過ごす間、このひとは家族以外はいない山奥で、世間から隠れるように生きるしか無かった。私が自由に世界中を歩くとき、彼の世界はここだけだった。
彼の夢は、動物園と水族館に行く事だった。
そんなことは、世の幼稚園児でさえ、その気になれば毎日だって出来る、とても簡単な現実だ。しかし彼のこの体では、世に触れること自体が、難しい。柿谷氏の所為ではない、我々「普通の」人々が彼のことを、奇異なものを見る目で見てしまうからだ。
だから私たちは、彼のように高知の海を、青く深く、描くことが出来ない。
だから柿谷氏は、見たこともない高知の海を、躍動感溢れる様に、描ける。
彼の状況からすれば、すべての事象に絶望しても良さそうなのに―――――
絶望に満ちた人間に、日の光をきらきらと反射させる海を、真正面から描くことは出来ないだろう。
私は自らの身を、心を恥じた。
「わしは柿谷さんを、動物園に連れて行こうと思っちゅう」
竜馬の声が、リビングに響く。
「木戸さんは、どうするが?」
彼は柿谷氏の水彩画のように笑った。明るく逞しい土佐の海。
「水族館が欲しいのぅ」
神道無念流に生きる選択肢を捨てたのは
政治家になると決めたのは
道が無ければ 自分で作るのよ
今日この瞬間のためである
誰も歩いたことの無い道なら
私は両親を、萩を、神道無念流を、そして木戸家を捨ててしまうところだった―――――なんと浅ましき此の我慾……!
自分でそこを道にするの
慾を捨て
暗闇に光を
影ある世界に生きる人を ひなたに
世にひなたをもたらし給え
必ず出来るわ
いまここで
私は
道なき道を
作るのだ
私は、ゆっくりと柿谷氏の手を取った。包帯の下には、真っ赤に腫れた手。皮膚が皮膚になりきれない体は、きちんと人間の温かさをしていた。
このひとは、人間だ。
私も、人間だ。
外見上の見た目がほんの少し違うだけだ。
同じ人間なのだ。
「……竜馬」
私は実に久しぶりに、親友を名前で呼んだ。涙に濡れたそのままの瞳で。
「やろう」
私は、ぱたぱたと涙が零れるのを拭くことも忘れて、きっぱり言った。
「誰もやらないなら、私がやる」
自分の人生を捨てても。
そう宣言すると竜馬は、「まっこと、えいのぅ」と日に焼けた顔でゆっくり笑うのだった。
そして私は、大久保と別れることを決意した。
世には、世に出られずにひっそり生きる人々がいる。
彼らは、世に生きる人たちの邪魔にならないようにと、自ら外に出てくることは無いと言って良い。彼らの大多数は、何かの被害者だ。柿谷氏のように、未熟な医学による被害者である人もあれば、世に裏切られ絶望のまま生きる人もあるだろう。あまりのショックの大きさに、全く言葉を失った人もいるだろう。
私は、そう言う人々の声を聴きたいと思う。聴くために、萩を出て下関を出て、ここに来た。
彼らの手を取ることが、真に政の道を行く人間のすべき事だと
私は信じる
≪あとがき≫
この作品を書きたくて、ブログとサイトをやめないでいました。多忙を理由に閉鎖することも考えたのですが、きらきらと涙を流しながら一人で前に進む彼の姿を、絶対に文字に起こしたかったのでした。
私のなかの桂小五郎は、こう言う人です。
ひなたちゃんは、生前家族を愛していた小五郎のために出てきたオリキャラです。
作中の柿谷氏のモデルは志々雄真実と無関係の、アメリカに暮らす男性です。とある皮膚科の教授からこの話を聞いて、ずっと、この作品を書きたかったのでした。
いまも柿谷氏のような人は全世界に十名くらい居て、モデルとなった人はアメリカの山奥で、ひっそりと暮らしているそうです。
なお、日本全国の柿谷正二氏と作中の人物は、全く関係ありません。
この作品を、柿谷氏のモデルとなったアメリカ人男性と、
タヒーボの研究に50年以上の人生をささげた元サンパウロ大学名誉教授 故アコーシ博士、
タヒボ・ジャパン株式会社とタヒーボ研究者のすべてのひとに捧げます。
覆霞レイカ Feb.13.2014