窓から差し込んだ光に淡く木目を照らされた明るい階段を降りると、リビングのソファで横になっている晋作がみえた。

 息の音が硬いのは、晋作は実は起きていて、こちらを覗っているということだ。何も言わずに、私はキッチンへ行ってTopf(鍋)の蓋を開けた。

「……ない」

 やはり、数時間前まで確かにあった肉じゃがが玉ねぎの欠片はもちろん、汁さえもなくなっていた。時間を置けば置くほど味が染み込んで美味しいから、楽しみにしていたのに。

 残り香の漂う空間で立ち尽くした私には繰返すしか抗議のしようがなかった。

「…からっぽ」

 するとリビングから腹をぽんぽんと叩く音がして、

「美味かった」

と、さも満足そうな晋作の声が返ってくる。

 私はふうん、とやり過ごしながら、空になった鍋を流しで洗った。流石に貸家で食器洗い機を置く気にはなれなかったから、どんな食器でも自分で洗うしかない。尤もこういうことは、私は決して嫌いではなかった。

「料理上手くなったな〜」

 晋作は機嫌が良い。起きるなり、よっ、とソファの背を飛び越えて、鍋を洗ううちにほとんど私の肩からずり落ちていたカーディガンを奪って自分のものにしてしまった。

「うはぁ温い〜。俺このまえ久々に焼きそば作ってすげ〜美味かったけど、お前の肉じゃがのほうが美味い。マジ。俺、保証する」

「それはどうも」

 たぶんこんなことを言ってくるだろうな、と予想していたから、ここで私はとどめを指した。

「あれは大久保が拵えたものだ」

 酷く落ち着いた声で。

「………え゛」

「そんなに美味しかったら、ちゃんと『美味しかった』と言ってきたらどうだ。きっとまた作ってくれる」

 私なんて何度も…、と続けようとして、突然腕が掴まれて私の手が流しの泡の中から引き出された。

「な…」

「お前も食ったのか!?」

「当然じゃないか。ご飯の良いおかずだ、」

「そしてこの俺も食ったのか?!」

 晋作は自分を指差してムキになって私に尋ねている。多少どころか、おおいに顔を青褪めさせながら。

「それは晋作がいちばん解っているだろう」

 私はわざとらしく、つん、とそっぽを向いてふたたび洗い始めた。晋作が勝手に戸棚から出したらしい皿と、これまた勝手にご飯を盛ったであろう椀も洗う。みたところ、炊飯器のコンセントが抜けているから、ジャーの中身もなさそうだ。肉じゃがにはやはり米ですと言って、大久保がわざわざ米に相応しい軟水を買ってきて炊いてくれたというのに。

「………」

 私は無言で泡を流す。それでも晋作の息遣いについ聴力を使ってしまうのは、いままで経験があるからだった。尤も私と晋作の仲はまだ四年で、幼馴染とかそういう関係ではないのだが、どうしても気を遣ってしまう。少なくとも、私が晋作に気を遣わせることは今まで一度もなかったと思う。

 ざぁっ、と流れる水の音が、凍ってしまった晋作の周りの空間と対照的で気持ちいい。私は充分に泡を流すと、水切りに皿と椀を置いた。

「…く」

 私の後ろで晋作がなにかうめいている。

「なんだ?」

「吐く!!」

 えっ…

 しまった、と思った瞬間、晋作は「うがぁっ」と言いながら流しに顔を伏せた。胸に手をあて、流石に指を突っ込みはしていないが、とても歴史ある旧家の長男とは思えない声――――うがっ、うげっ、うぇぇぇ――――などと言いながら、折角食べたものを吐き出そうとしているのだ。尤も晋作の胃は何があっても吐けないように出来ているので、私はどこかで安心していたのだが、その、あまりに情けない姿を目の前にして、不快な顔と声をつくって言い放った。

「食べ物を粗末にする男は嫌いだ」

「………」

 途端に晋作は顔を上げてこちらをみる。

「…なんだその眼差しは…」

 まるで私が悪いのだとでもいいたげな目に、つい私は怯みそうになる。そしてこれが、晋作のいつもの手なのだ。

「……小五郎!!!!!」

 言うなり、私はむぎゅうと抱き締められた。

「うわっ」

「どうしちまったんだよ?!…あんな…あんなヤツの言いなりになるなんてお前らしくないっ!ぶったたけよ!簡単だろ?お前は免許皆伝なんだよ!なのに、若手期待の剣道会のホープの座を蹴った結果がこれかよ?!神道無念流が泣くっ」

「晋作落ち着け!」

「いやだだめだっ、絶対連れて帰る!!!」

「離さないか!」

「だめったらだめだ!!!」

 そのあと、まだ騒ごうとする晋作に私は大久保の過去と現在を伝えた。木戸興業の事件は、大久保の責任ではないということ、寧ろ彼はデータをきちんともとに戻して送り返してくれたこと、大久保は会長から指示されて関わっていただけということを。

「島津の娘と結婚してンだろうが!!」

「結婚してすぐに亡くなったそうだ。病気で」

「………」

 晋作は口を噤んだ。もともと晋作は病がちで、高校も連続して休むことがままあった男である。肺炎をこじらせて入院していたこともある。だから、病気で苦しむことがどういうことが、彼はよく分かっているはずなのだ。

 入院中の晋作の顔を覚えている。隣の病室で、晋作と仲良くしていた男性が死んだとか、廊下で顔を合わせるだけの存在だった患者がある日を境にこの世から消えてしまうとかを、晋作は経験している。

《なんで病気なんてあるんだろ。悪いやつなんていっぱいいるのにさ、何もしてないオッサンとかガキがばたばた死んでいくのって、変だと思わないか小五郎?》

 晋作はそう言って笑いはしたけれど、彼のそのときの眼は決して笑ってなどいなかったのだ。

「…………」

「そのことを、大久保には言うな。いちばん辛いのは当事者なんだから。私にはいくら愚痴っても構わないが、大久保を責めたりするなよ」

「………」

「いいな」

 ぷい。

 晋作はなにも言わずそっぽを向いてずかずかとキッチンを去った。残された私は深い溜め息をつくしかなかった。

 晋作がこの家に来て二日目、私は大久保と晋作がまったく顔をあわせなくて済むように、大久保の部屋に食事を運び、食器を片付ける。大久保は二階の自室で大人しくしている。対照的に晋作は、我が物顔でリビングでだらだら寝たりラジオを聴いたりしていた。ドイツ語は分かんないけど雰囲気とかいいよな〜などと呑気なことを言いながらソファで寝転がって雑誌の写真を楽しそうにみていた。大久保の気も知らずに。

「すみません…」

 私が昼食をもって部屋のドアをノックすると、いかにも申し訳なさそうな顔で大久保が出てきた。私は言った。

「あいつはいつもあんな感じなんだ。機嫌を損ねないうちはいいんだが、一度拗れると自分の気が済むまで周りをかきまわす。癖なんだ。だから気にしなくていい」

「はぁ……」

 冴えない声。それに、普段は表情が表に出ない大久保なのに、晋作が来てからはどうも顔が晴れないのだ。

 …もしかして、もともと大久保は晋作が苦手だったりして。

「いただきます……」

 大久保のしょぼくれた背中が向こうへ向いて、食器の音がひとりの部屋に寂しく響いた。私は扉を閉め、パタンと閉じたそこに背中を預ける。階下からは浮かれた晋作の三味線が聞こえてくる。

 ………ははは……





 翌日、晋作が行きたいというのでクライトベルクの古城観光にふたりで行くことになった。無論大久保は留守番である。

 無言無表情の大久保と対照的に、晋作はいやに元気で機嫌がよく、ある意味不気味だと私は思った。

 滞在期間中の晋作は、いつもと同じように私の部屋で寝る。寝つきはいいし鼾もかかないので同室でも安全なのだが、この壁の向こうに大久保がひとり寂しく布団にもぐりこんでいるのだと思うと、妙な気分になり、夜中ちょっと目を覚まして隣の気配を覗ったりした。結局はなにも分からなかったけれど。

 やれやれ……

 私は浮かれながら古城を眺める晋作を横目でみた。

「やっぱ壮観だなー。これ建ったの十六世紀だっけ?!日本の戦国時代かーいやー凄い凄い」

 晋作の趣味は古今東西なんでも状態である。剣道、柔道、書道、三味線と和の道を行ったと思えば、アメフト観戦、野球はメジャーリーグ、サッカーはイタリア、ブラジル、おまけにスペインで闘牛と多彩過ぎる。「世界は面白い」が口癖の男に、ひとつのことを集中して続けろ、ということが難しいのだ。私は彼の父親に何度も会っているが、やんちゃな長男(しかも晋作は高杉家たったひとりの息子である)の行く末を頼む頼むと私に拝んでばかりいる。なのに晋作はやっぱり晋作だった。

「どのぐらいの地震でこの城ぶっ壊れるんだろうな」

「………」

 晋作のアタマは私には永遠に理解できない。

 晋作は古城の中庭をぐるぐると回り、木立を眺めたり写真を撮ったりして散策を楽しんでいるようだった。この城の中庭は、中世に造られたという植物園が併設されていて、新種と交配させることなく、中世のままの古来種が丁寧に栽培されている。だから中世に飲まれていたワインやビール、ハーブの味が資料館などがある休憩所で味わえるというわけで、ここがクライトベルクのちょっとした観光名所となっているのだ。

 彼はここが気に入っていて、ドイツを訪れるたびに足を運んでいる。

「だって向こう(アメリカ)じゃ、こんなの無いし」

「だろうな」

「あ〜あ〜、日本ももっと一杯残しておけば良かったのに。文化とか歴史を否定するなんて勿体無いよな。あっちで三味線弾くと、結構喜ばれるんだぜ」

 晋作のいるアメリカには、日系三世や四世のひとが大勢いて、まだ見ぬもうひとつの故郷の音に引かれて晋作と友人になったりするらしい。もちろん、少なくとも欧米では耳にすることのない三味線の音階に興味をもつ欧米人もいて、去年は晋作が彼らのために浴衣を土産に買っていき、着付けの練習までさせ、彼らがひとりで着られるようになった記念に撮った写真を私に送ってきたりした。故郷を離れると故郷が恋しくなるのは当たり前か。

「……」

 私は思った。  そうだ、晋作は渡米してからも彼の調子で、留学生活をとても楽しんでいるのだ。勉強にも身を入れている。明るくて前向きな地元の友人にも恵まれて、つまり、留学前と変わらぬ充実した毎日を送っているのだ。だから私も安心していたのに、なんで初対面の大久保には酷いことを……

 私は意を決して、しゃがんで中世のハーブの花をみつめている晋作に尋ねた。花弁に戯れる蝶々の羽の柄や葉の葉脈の観察をしているようだった。

「なぁ晋作」

「ん〜?」

「これからも、ずっとこんななのか?」

「はぁ?」

 晋作はしゃがんだまま、目をくりんと上向けて私を見上げた。子供のような無邪気さははじめて会ったときから変わらない。

「大久保のことだよ」

 私が言うなり、晋作は緩めていた口元を引き締めた。それは、剣道をするときに彼がみせる真剣な表情で、彼の傍にいる人間でも滅多に目に出来ない貴重な顔であることを、私は知っている。いつもへらへらしている晋作しか知らない人間がこんな彼をみれば、高杉晋作という男を見直すであろう、実に男らしい顔なのだ。

 晋作は風雲児の可能性はあるが、別に問題児ではない。暴れるときは暴れるが、やるときはがりっとやる。本気で剣道や議論を始めれば、私のいいライバルになる。晋作はそういう男だ。きっと分かってくれる…と思いたい。だから言った。

「……晋作が大久保を気に入らないのは、なんとなく分かる(本当は、大いに分かると言いたいのだが堪える)。でも彼はルームメイトなんだ。どうしても彼が嫌いというのなら仕方がないが、それを面と向かってアピールするのはどうだろう?ますます険悪になるだけだよ。私だっていたたまれなくなるし、あのアパートは気に入っているし、ユーリにも心配をかけることになる」

 どういうわけか、晋作はユーリと仲が良かった。ユーリが大人しい性格だからかもしれないが、ユーリの話なら落ち着いて聞くことができたのだ。そのまま私は一押しした。

「あそこは私がユーリと過ごした大切な場所なんだ。だから大久保とも、いい感じで過ごしていきたい」

「……」

 晋作は無言のままだ。無言のまま視線を庭内をゆっくり巡らせて、立ち上がり、私をみる。そこで私は漸く気がついた。

 いつのまに、晋作はこんなに大きくなったのだろう?初めて会ったときは同じくらいの身長だったのに、いまや晋作は大久保のほうが背が近い。私と同じように病弱だった体にも筋肉がついて、高校三年で剣道を辞めて以来筋肉が落ちた私とは比べ物にならないほど、小気味良く引き締まっていた。なのに私の前では幼子のように甘えてくる。無論、それは私にとって不快だけではないのだが……

「晋作、」

「お前が言うなら俺も言う」

「――――――うん」

 私が応えるなり、晋作はきっぱりと言い放ってきた。

「俺はあいつが嫌いだ」

 やっぱり、と私は落胆した。まぁ、晋作は人の好き嫌いが結構激しいほうだから、その網に大久保が引っかかったと考えるのが妥当かな、と思うのがいいだろう。

 心の中でそっとため息をつく私に、間髪入れず晋作は聞いてきた。

「…お前は?」

「え?」

「お前はあいつが、好きなのか?」

 訊かれて、私のなかで晋作の問いがこだました。

 ……私が、大久保を好き…?

 私は黙ってしまった。そういえば考えたことが無かった。いつも彼の好意(というのだろうか)に流されてきた。だが私の大久保に対する気持ちは、彼の私に対する気持ちに釣り合うものなのだろうか。

「………」

 きゃははは、と、庭を訪れていた他の観光客らの声が聞こえる。空気がここだけ止まっているように感じた。私が呆然としていると、晋作が問い詰めてきた。

「どーなんだよ」

 はっとして私は晋作をみた。面長の顔が明らかにムスっとしている。こんな晋作を前にしているのだから、言葉は慎重に選ばなければならなかった。

「そうだな……」

 私は考えた。大久保の、色素の薄い髪の毛や瞳と、彫りの深い顔を思い出し、彼と過ごしてきた日々を思い返した。去年のクリスマスに、知らずのうちに互いにおそろいの手袋をプレゼントしていたこと、それを今も大切に使っていること、大学の図書館から借りてきた本を貸しあったり、リビングのソファでクッションを抱いて一緒にテレビをみたり、映画をみたり……

「……」

 そして分かった。

 大久保といるのは不快じゃない。

 神経質の私が穏やかで優しい生活が送れていることに、私は寧ろ感謝したいくらいだ。

 尤も、大久保が夜に私に抱きついてきたり、その……朝まで過ごしたりするのには私自身、確かに驚いている。というか、少なくとも私と彼との関係は友人とは言わないだろう。朝ベッドから起き上がれば腰がずれそうになるし、下肢の感覚もとても変だ。

 でも、起き上がろうとした私がベッドに崩れるのを横目でみていた大久保が、喉で小さく笑うのを赤面しながらみたりするのは、決して嫌ではなかった。

 下らない冗談を言って私を笑わせながら、ひとりでいるときはいつもどこか寂しそうにしている大久保。

 長いコートをはためかせて異国の地を歩きながら、彼は、故郷で傷ついた心を静かに癒そうとしているのだろうか………

(そして私は、彼が少しずつ立ち直っていくのをこの目でみつめていきたいのだ。もしも彼がそこまでに私を、求めるというのなら――――――)

『木戸さん』

 大久保の声が聞こえる。

『好きです』

 私が目を閉じてからもずっと、彼は、彼が日常的に私に吹き込んでくる言葉を耳元で繰り返す。気恥ずかしいけれど、とても心地よかった。それは私が、そんな大久保と私を許しているという証だと思う。

 私は晋作の目をみて言った。

「私は大久保を、好きになろうとしているよ」

 大久保の手をとってやりたいと思う。

 彼を受け止めて、暖めてやりたいと思う。

 …こういう気持ちを熟語ひとつで定義してしまってよいものか分からないけれど、「愛情」に近いかもしれない。中途半端な気持ちは、いけないものなのかな。大久保は友情でも愛情でもいいと言っていたから、私もそういう気持ちになろうとしていると思う。どこまで発達するかは、これから私が決めることだ。

 私はおおきく深呼吸した。風が私たちの頬を撫でた。クライトベルクの春が私たちを包んでいる。

 こんな季節のように、大久保と過ごしていきたいんだ……

「なぁ晋作、ひとを好きになることは、悪いことじゃないだろう?私はちゃんと、晋作のことだって好きだよ」

「………」

 晋作は黙った。むくれた顔をつくり、私から視線を外してひとこと、分かった、と呟いた。

 私はふっと微笑んで、ジャケットのポケットに手を入れた。





 晋作が勝手にここを訪れて四日目の朝、事態は急変した。

「ええー」

 日本にいる晋作の父親から、すぐに帰国するように電話が入ったのだ。アメリカの寮に電話してもいなかったから次にドイツのこのアパートに連絡を入れたそうだ。行動範囲が広いと雖も、父親はすべてを知っている。

「くじ引き?なんのこと?……はぁぁ?!」

 ソファでだらだらと電話をしている晋作を、私は出窓の下に添えつけてあるミニチェアに腰掛けて窓の外を眺めながら、そ知らぬふりをして聞いていた。

「…ちょっと待てよ父さん……ていうかさ………くじ引きで決めるかフツー……」

 晋作は困惑を隠せない。

 ははぁ。

 電話の内容は、晋作の結婚のことのようだ。実は私は春休みを迎えてすぐに、晋作の父親から「あの破天荒の息子に早めに家庭を持たせたいから、あっちこっちで女を作らないように監視してもらいたい」と頼まれていたのだ。晋作は立派な家の一人息子で、幼い頃からそれはそれは大切に育てられてきた。世界中を自由奔放に歩き回るのが趣味の息子をもった親は、毎日が心配で堪らないのだろう、だから早いうちに世帯をもって落ち着いて欲しいのだ。

 かと言ってこれで晋作が落ち着くとはとても思えないのだけれど、自分が早くに実家を離れた経緯もあって、私も親という立場に対して後ろめたさを感じているので頷いたのだった。

「わーかった!分かりました。でも見合いだけだぞ、俺まだ二十代なんだよ父さん。結婚なんてまだまだ先っ。とにかく一度帰るから!じゃぁな!!」

 がちゃん。

 晋作は思い切り受話器を叩きつけた。そして思い切り膨れっ面をして、電話を睨みつける。

 まったくもう。あれが、父親に対する態度だろうか。晋作の父親は晋作とは違い、一般常識の通じる普通の人間である。父親が病弱な一人息子を、しかもヒマさえあれば世界中を飛び回りかねない息子を心配するのは当たり前なのだから、そんな親心を少しは有難いと思えばいいのに、晋作が高杉家の将来を真剣に考える姿を私は一度も見たことがなかった。だからきっと今回の帰国は、晋作のいい薬になると思う。

 というわけで晋作は早速帰国することになった。私が土産を選ぶ時間もなかったほど、珍しく晋作にしては特急の帰国で、晋作が担いできたスポーツバッグのなかに彼の服と愛用の組み立て式三味線を詰め込んで、晋作はドタドタ、と忘れ物はないかとアパート中を歩き回り始めた。

「歯ブラシ〜。石鹸〜。タオル〜は、乾いてないから置いてく!小五郎、俺の時計どこ〜」

「確か二階だ。いま持って来るから…………あ…」

 二人で奮闘していたところに、のっそりと大久保がやってきた。途端、きっと大久保を睨み付ける晋作。だが晋作は何も言わずに顔を前へ向けると、作業に戻った。バッグに詰め込む腕の動きがヤケになっている。

 がさっ、がさがさっ!ボンッ!!

 私は呆れながら立ち上がり、大久保の前に歩み寄った(大久保は晋作がいるために、私に近寄れないまま、リビングの隅で固まっていた)。

 大久保の掌には、晋作の腕時計があった。マリンカラーのSWATCH。瀬戸内の海の色によく似ていて、晋作が気に入っているものだ。

 大久保は小さく言った。

「階段の手すりに置いてありましたから……」

「…ありがとう…」

 私は受け取って、大久保が部屋から出て行くのを確認すると、まだがしがしやっている晋作の腕を掴んで、はめてやった。大久保から渡された時計の針が、晋作の腕で時を刻み始めた。

 流石にがしがし詰め込んだのでスポーツバッグは見た目、凹凸が激しくなったが、予定期間を切り上げた晋作が今日、クライトベルクを去る。ドイツを経つのは夕方になる。そして雲を突っ切れば日本の上空なのだ。

「小五郎」

「ん?」

「次はいつ会える?」

 出来上がったバッグを玄関に置いてきた晋作が、きょろりとした目で訊いてきた。私は少し考えてから答えた。

「そうだな……夏には日本へ帰るよ」

「じゃー俺も帰る」

 大久保は…帰らないだろう。家族は東京で暮らしていると言っていたが、帰ったところで島津関係者の目が気になって安らげまい。つくづく私は、自分の環境が恵まれていることを噛み締めた。

 誰もが安心して暮らせる世界の実現には、まだまだ遠いということか―――――…脳裏に、みせてもらった大久保の妻だった女性の顔が浮かんだ。穏やかに微笑んだ、おそらくは普通の女性。九州最大のグループの会長の長女という大変なところに生まれたにも関わらず、あっという間にその人生を全(まっと)うしてしまった。

 残された家族の無念さと悲哀さを、私は知っている。だから私も、たとえ生まれ故郷の萩に帰ることが出来なくても、出来るだけ近くにいなければ。私は両親が年老いてから生まれたから尚更そう思った。

 日本に帰ったら、なにか土産を大久保のために買ってこよう。彼の心をさりげなく癒せるような、そんなものを…

「おい」

「…え?」

 気がつくと、私は晋作に顔を覗き込まれていた。不審気に細められた目にみつめられて てて意識を現在に戻す。

「あ…どうした?」

「んー、俺、そろそろ行くわ」

 バス、そろそろ来るだろ。

 晋作はSWATCHを見ながら言った。ミュンヘン行きのバスが停車するBushaltestelle(バス停)が、このアパートを出てすぐの通りに立っている。

「あっ、そ、そうか」

 私はソファから立ち上がった。よっと声をかけて立ち上がった晋作がリビングを出て行く。リビングの入り口ぎりぎりのところで様子を伺っていた大久保がさっと身をひいて廊下に出るのと同時に、大股の晋作が廊下へ出た。晋作はそのまま、無言で玄関の扉を開ける。その背中がなんだか怒っていて、私ははらはらしながら彼の後を追った。

 扉を開けると、花で美しく彩られたクライトベルクの町並みがみえた。その景色に見とれた晋作がふと足を止め、振り返って私をみて、「じゃぁな」と言った。

「気を付けるんだぞ。浮かれてどこか他の国に行ったりするなよ」

「わーってるって。お前も、『変な男』にひっかかるんじゃねぇぞ。まぁ、そんな『変な男』が現れたら俺がそいつを潰してやるけどさ。だって俺、免許皆伝だし。ひーっひっひっひ、けっけっけ」

「………」

 晋作の台詞に、私の背後の気配が固まった。

 これはまずい、と思った私は晋作に近づいて彼の隣に行き、晋作と二人で大久保に向き合う格好をとった。けっけっけ、と笑ったわりに晋作の気配は真剣で、だが、せめて晋作滞在の最後だけは穏やかに事を治めたい。

「晋作、」

 私は晋作の腕を肘でつんつん刺激して、なんとか晋作の口から(形だけでもいいから)別れの挨拶くらいを引き出そうと思ったのだが、晋作はすぅと空気を吸い込んで胸を膨らませるなり一言、叫んだ。





「死ねこのヒゲ!!!!!!!」





「ひ…」

 あまりの怒号に大久保の強張りが度を増した。それを確認してか、晋作はしてやったりと意気揚々の気分になって荷物をコートを肩にひっかけただけで、だーっと玄関から飛び出して行く。

「晋作ッ!!」

 私の声は届くはずも無く(もちろん晋作には聞こえているのだろうが)晋作は狙っていたとしか思えないタイミングの良さでやってきたバスに滑り込んで、去ってしまった。

 Boboboo...

 バスは誇らしげに遠ざかっていく。晋作は、やっぱり問題児かもしれない。

 しかたがないやつ…と思いながら振り返ると、呆然とした大久保がいた。私は声をかけた。

「大久保、大丈夫か?」

「…ひげ……」

 大久保は、意識蒼白といった様子でバスが去った方向をみている。

「大久保?もしもーし」

「………」

 大久保の視線は動かない。この男がぽかんと口を開けるなんて、滅多でも起きることではない。

 流石の大久保も、今回はだめそうだ……

 私は溜息をつきながら肩を落とした。そのまま階段を昇って、家に入った。大久保はまだ来ない。玄関に入り込んでくる風だけが暖かくて、嬉しいはずの気温に、なんだかからかわれているようだった。

「はぁ」

 今夜は私から大久保を誘ってやろうかな、なんて大胆なことを思ってしまったりした。




 このスリーショットで晋作が目立つのはなぜだろう…。というかこの三人が同席すること自体、経験則では極めて異例のことなのではないでしょうか。ある意味禁忌肢ですね。
どうしてか、晋作って贔屓したくなるんです(笑)。
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