「木戸さん」と大久保が呼ぶ声がして、「なんだ?」と応えると彼は彫りの深い貌をぐっと寄せてきたので、私は思わず目を瞠ってしまった。

「!」

「…どうかなさいましたか?」

「………いや…」

 春休みである。

 南ドイツだけあってのんびりとしていて、出不精の私もどこか行きたくなるような空気に包まれて、つい気を解してしまいそうな毎日であり、だから、私はどうかしてしまったのだろうか。

「………」

 このところ、大久保をまともにみれなくなってきた。

 大久保がヘンなことを言った夜から。

『好きです』

 ……酔っていたとはいえ、あんな言葉が忘れられるはずないじゃないか。そしてそのあとの…キス…といい……まったく大久保はなにを考えているのだろう。

 それに、嫌いならば投げ飛ばしていいなど、ふつう言うものだろうか?そんなこと言われたら投げ飛ばせないじゃないか。だから大久保のキスから解放されてからも、私はなにもできず、ただただ、意外に広い大久保の胸に体を預けて、彼の気持ちが治まるまで黙っていたのだ。

 そして大久保が私を離したら望みどおり投げ飛ばしてやろうとか、せめてドンと胸を叩いてやろうとか考えていたのに、なのに大久保は骸骨のような腕でひょいと私を抱き上げて階段を昇って、…あああ。

「………」

 私だって大久保は嫌いではない。神経質な私が一緒に暮らせるのだから、寧ろ好人物だと思う。けれどそれとこれとは違うんじゃないかと思っては消えがここ数日続いてしまっている。おかげでぼんやりしようとしても耳のすぐ傍で大久保の低い声が聞こえてきそうで、ぼんやりすら出来ないでいた。

『愛しています』

「っ…」

 あああ。

 気分転換に、図書館にでも行って本を探して来ようかな。

 そう思って私はソファから立ち上がろうとしたが、腰に力が入らず、膝から絨毯へ崩れ落ちてしまった。

「痛っ……」

 絨毯に打ち付けた膝が痛いわけではない。

 私は青くなっているのか赤くなっているのか分からぬままに、そこにへたりこんでしまった。

「……大丈夫ですか?」

 背中からかかってきた低い声が笑っている。へたりこんだまま動けない私の胸に、後ろから手が廻ってきてするりと膝のうしろへと滑り、また抱き上げられる。

「ちょ…」

「だから今日は一日中休んでいましょうと言ったじゃないですか。もうお分かりですね?ちゃんと貴方のお部屋に行きますから。ね、木戸さん」

「………〜〜〜っ」

「…そんな目でみつめないで下さいよ。大丈夫、なにもしません。貴方を見張っているだけです」

 みつめているんじゃない、睨んでいるんだ!

 もし私が普通の身であれば足をバタバタさせて暴れるなり、それこそ大久保を投げ飛ばすなりするのだが、如何せん、今日は全身が軋むように痛んで、どこも動かしたくなかった。

 毎晩毎晩飽きもせずに、この…助平男。

「なにか仰いましたか?」

「……」

 ふん。

 そっぽを向いた私でさえ、この男にとっては愉しいらしく、大久保は朝から機嫌が良すぎて気持ち悪かった。





 はぁ。

 とベッドのなかで、私はそっと溜め息をついた。大久保に聴こえないように小さく。

 結局私はパジャマを着せられて無理矢理ベッドへ入れられた。確かにそのときまでは大久保はなにもしなかったが、体につけられた痕という痕を目にして、私は自分で卒倒しそうになり、体が震えて言うことを聞かなかったため、情けないながら大久保の手を借りながらの着替えになってしまった。その間も大久保はいまにも鼻歌でも歌いだしそうに浮かれていた。

『眠れないようでしたら、眠らせて差し上げますから』

『……結構だ』

『駄目ですよ、そんな目でみつめられても私の胸は躍り上がるばかりです』

『…ばかっ!』

 言い捨てて私はふとんを掴み、くるりと体を半転させて大久保の視線から逃げた。その瞬間、

『……っ』

 痛い。

『〜〜〜』

 あまりの痛さに私は掴んでいた布団をぎゅっと握り締める。一箇所が裂けるようで、尋常の痛みではないのだ。こんな痛みは……当たり前だが生まれてはじめてのことで、昨夜もその前もその前の前からも、全然慣れない。

『う……』

『あの、大丈夫ですか?』

 大久保が覗き込んでくる。しまった、と思ったときには布団をかなりめくられていて、大久保の貌が私のすぐ近くにあった。

『………っ』

『泣かれるほどお痛いとは…』

 大久保は私の目じりに染み出た涙を冷たい指で掬いながら言う。そしてふてぶてしいまでに落ち着いた印象の男が、厳しい叱責を受けたあとの子犬のような貌で、素直に謝ってくるのだ。

『すみません…』

 大久保の貌から笑いが消えている。

『貴方が許してくださって、その…嬉しくて』

 …嬉しくて毎日昼夜構わず?

『なんども言いますが、お体目当てとか、そういうのでは決してありません』

 べつに私は処女でもなんでもないのだし、妊娠する心配もないのだから、極論でいうと構わないのだけれど。

『あの、次から痛くないようにちゃんと研究してきますから…あいたっ』

 そこで私がこっそり掴んでいたミニクッションが大久保の鼻っ柱に命中した。

『…なんてこと言うんだお前は!』

『すみません…でも本気なんです、信じて…ください』

『…っ』

 そんな照れたような貌をされてはまるでこちらが責めているようじゃないか――――――

『貴方が好きです、木戸さん』

 木戸さん。

 言いながら大久保の貌が近づいてくる。無遠慮に、それでいて静かに。は、と思った瞬間私はベッドに手首を押し付けられ彼の唇に捕らわれていた。

 それから着せられたばかりのパジャマを脱がされ、上半身裸にされて、あちこちの肌を吸われたり噛まれたりした。私が痛がることはしなかったことだけは褒めてやる。

 それでもさんざん私を泣かせるだけ泣かせて、最後の頃は私のほうから大久保に手を伸ばしていた。若いからとはいえ、まったくこの男は……

 私は大久保をみた。大久保は私のとなりで満足そうに眠っている。髭さえなければ年相応の容貌をしているのに(私と三つしか違わないから)、わざと老けさせているようなのだ。尤も、大久保の友人らに言わせると、大久保は思考自体は若いのに、思考の展開の仕方が老けているから外見とバランスがとれていていいじゃないか、だそうだ。

 考えてみれば可笑しな男だ。この片田舎の小さな大学に知人もなく新学期でない時期に単身留学してきて、正月日本に帰ることもなく滞在し、身なりもきちんとしていて少なくとも金に困っている様子もないし空き時間を利用してバイトすることもなく現金で新車を購入して走り回り、最終学歴は高校で、そして英語ドイツ語中国語等を簡単に操れるなぞ…

「………」

 確か大久保は言っていたと思う。父親がやっていた小さな貿易会社は倒産してしまったと。持ち家も売却してしまったと。

『だから私には帰る場所はないんです』

 そう言って笑った大久保。妹はいるが、電話も手紙のやりとりなど行っている形跡も皆無で。

 帰る場所がないのに、そうやって笑っていられるのはなぜ?

「……」

 それとも笑わずにはいられないほど、実は荒んでいるのだとか。

「…まさかな」

 いつかの私でもあるまいし。

 私は小さく息をして目を閉じた。途端、となりの大久保が腕を伸ばしてきて私を抱き締め、私の胸に鳶色の髪の毛が覆い被さってきた。

「ん……」

「…?」

「……戸…さん……」

「……」

「…好き…です…」

「……ξ」

 寝言だろうとなんだろうと、私からそんな言葉は言ってやらないからな。絶対に。

 思いながら少し笑って、私はいい気分で目を閉じた。






 あくる朝、開けていた窓から迷い込んできた蝶々を外へ出してやっていると、玄関のベルが鳴った。

 しつこいぐらいに鳴らすから、それが誰だか分かってしまった。

「よぅ!!」

「晋作」

 現れたのはアメリカ留学中の高杉晋作である。

「新しいルームメイトをみにきてやった」

「開口一番がそれか?」

「悪いかっ」

「悪くない悪くない、ほら入って」

「おっじゃましま〜、」

 す、と言おうとして、晋作は新しいルームメイト・大久保を見据え、突然動きを止めた。だけでなく、ばっと私の体の前に腕を出し、私がこれ以上大久保のほうに進めないようにする。

「晋作、なにするんだ?腕をどけ…」

「新しいルームメイトって、あいつか?」

 晋作は大久保をみている。

 大久保も晋作をみている。

 大久保の灰色の目が光っている。そんな目ははじめてみる。

「……?」

 異様な雰囲気に私が呆然としていると、突然晋作が私のほうを向いて怒鳴った。

「こん、馬鹿がっ!」

「?」

「あいつは島津ンところの男だろうが!!!」

「え……」

「お前を選んだ総一郎の爺さんが死んだのはあいつの所為だろうが!島津ンとこの娘と結婚した男だ!しっかりしろっ、お前狙われてたんたぞ!髭生やして髪伸びてるけどな、俺には分かる!とにかくお前は日本に連れて帰るからな!!いいな小五郎ッ」

 ―――――――――――島津。

『おのれ島津め…』

 あのとき。

 狭心症を患っていた祖父で会長の木戸総一郎は、福岡営業部をはじめとする九州木戸興業が提携先ぐるみで事実上乗っ取られていたことを知り、そのストレスであっという間に心筋梗塞に至り、私の目の前で死んでしまった。

 このところ島津アソシエイツの動きが喧しいと噂されていた矢先のことだったのだ。

 島津アソシエイツは九州最大の企業グループであり、九州よりほかの国内には昔から東京、大阪、沖縄に支店があるだけの、穏やかな企業であった。しかしここ数年で急激に体制が変わり、他企業を積極的に買収して……いや、少なくとも木戸グループの調査によれば、株式を独占していって社が売却せざるを得ない状況にまで追い込むという……穏健派として知られる島津のやり方とは明らかに異なった方針をとるようになっていた。

 そして、九州にわずかの支店を置いていた木戸興業にまで着手しようとしていたのだ。そして実際、社のデータ等多くの資料が島津側に洩れてしまい、木戸興業としては大変な損害を受けたが、何故かその後データはそっくりこちらに戻ってきて、損害は九州興業の株式だけという(それでも笑えない額だが)不思議な構図を描いて事件は終った。

 警察には言えなかった。幹部に島津の関係者がいたから、言ったところで揉み消されると分かっていた。

 ―――――――それがどうして、大久保と関わってくる?

「………」

 私は大久保をみた。

 大久保の髪の毛をもっと短くして―――――いまは肩にかかりそうな髪の毛を短くして、髭を剃って……

「あ…!」

 あの男だ。そうだ思い出した、いつか私にみせてくれた社内の資料で、祖父が言っていた男――――――

『これには気をつけなければいかん。なにを考えているか儂らには見当もつかんが、多分この男はお前の敵になるよ』

 ライバルではなく、敵と、祖父は言ったのだ。

 その男が、私を?

『貴方が好きです』

「……っ」

 身の毛がよだつ。祖父が敵と憎んだ男と一緒に暮らしていて、しかも……

「あっ、おい小五郎!!」

 私は晋作の手を振り切って階段を昇り、二階の自室へ駆け込んだ。






「言っておきますがね、高杉さん」

「寄るな極悪人!!」

「俺はもう島津の人間じゃありませんよ」






 遠慮がちなノックの音がする。

 さっきから繰り返しずっと。

「…木戸さん」

 鍵は、開けてやらない。

 私は抱え込んだクッションを抱いてドアにもたれて座っている。

 零れる涙。

 信じられなかった。

 私は、私はいったいなにをしていたのだろう。

 なんのために留学までしたのか。

 なんのために木戸の家に入ったのか。

「木戸さん…あとできちんと殴られます。私は、貴方にならなにをされてもいい身なのです。ですがいまは、…どうか聞いてください」

「………」

 聞いてやるものか。勝手にすればいい。尊敬していた祖父を死に追いやって何の恨みも関わりもないはずの木戸の家をめちゃくちゃにして、可哀想に、福岡支店長は首を括ってしまった。

 おまけに結婚までしていたなんて…

(う……)

 私は抱えた膝に顔を伏せて涙の音を、ドア越しに聞かせまいとした。

『愛しています』

 嘘だ。それは嘘だ。

「わ…たしをからかうのが…そんなに楽しいか?」

「…木戸さん、お願いです聞いてください」

 知るかっ。

 私は膝の上にクッションを置いて、そこに顔を伏せた。

 聞きたくない、なにも。私は大久保を信じられない。

 扉越しで伝わってくる大久保の息が、体の奥の痛みと疼きと共鳴しているようで、ぶるっと震えた私の背中で、大久保が喋りだした。

「…妻が死んだのは、結婚して四ヶ月目のことでした。もともと二十歳まで生きられるかどうかの瀬戸際だと診断されていて、披露宴はおろか挙式さえあげない結婚でした。相手は島津会長の長女で、貴方のお考えになっておられるとおり、私は結婚を機に島津の人間となり、まず最初に木戸グループを叩くように命じられました。具体的には―――――貴方です」

「…っ」

「貴方を潰すようにと、言われました」

「………」

「でも木戸グループは巨大企業ですから、いきなり貴方を狙うわけにはいかず、とりあえず私の…島津の目につきやすい九州の各社を掌握しました。掌握は成功し、あと少しだというところで、貴方のお写真を拝見したのです」

 …写真?

「私はそれまで社内の一部の人間にしか会っていませんでしたし、会議にも出席せず、会長から直接指示を受けていたので、それまで貴方がどういった方なのか存じ上げなかった。知らされていたのはお名前だけだったのです。それで写真を見せられて―――――――貴方が桂小五郎さんであると知りました」

「……」

「私は―――――出来なかった。貴方を潰すことは出来ないと、そこで漸く気が付いたのです。第一その頃貴方はまだ高校生でいらっしゃったし、その段階で貴方を…言い方は悪いですが、二度と木戸の名前を名乗らせないようにしたとしても、再び企業社会に出てくる可能性は十二分にありました。だから出来ないと会長に言う前に、貴方の会社のデータベースからハッキングしたデータを改ざん前に戻して、私はマレーシアに飛びました。そして帰ってきた日に、妻が死にました」

「……」

「私は、間に合わなかった。あれの死に間に合わなかったんです。ストライキに遭って、飛行機の発着が三時間遅れたのですが、会長に…妻の父親に手酷く甚振られまして、どうして間に合わなかったのだと……そしてその日を境に私は島津の家を追い出されて、家族もろとも東京に逃げてきました。なにをされるか分からなかったので…だから私はあれの死に顔もみていないし、葬式にも出ていません。私は妻が死んだ時点で島津の人間ではありません」

「…それがいまの私とどう関係がある?」

「貴方は以前、黄色いリボンをした五歳か六歳ぐらいの女の子と一緒に川原で遊ばれていたでしょう?その女の子に「虫のお兄ちゃん」と呼ばれていませんでしたか?手を繋いで…」

 そこで私はクッションを投げ出して立ち上がり、ドアを開けた。

 歪んだ視界の目の前には、色素の薄い男。

 私は出来るだけ声が震えないようにして彼に言った。

「……それは桂の家にいた頃の話だ。なぜお前が知っ」

 私は突然抱き締められた。

 ゆっくりと髪の毛を撫でられる。片方の手が背中へ降り、私の貧弱な体を撫でていく。囁かれる声はベッドのなかと同じ深みで…いや、もっと深いかもしれない。…大久保の、こんな声は知らない。

「女の子のスカートの色は綺麗なブルーでしたね」

「……」

「貴方は白いシャツと藤色のパーカーを着てらした」

「…っ」

 大久保は私の顎を左手で軽く持ち上げ、いままでにみたこともないような、酷く慈愛の篭った瞳で大久保の告白に震える私をみつめてきた。

「はじめてお会いしたのがそのときです。そのときから…好きでした」

「!…」

「貴方はちっとも変わっていらっしゃらない。思い出のなかの貴方も、はじめてこの家で私を迎えてくださった貴方も……いつもあたたかく私を包んでくださる。だから私は、貴方が私を受け入れてくださったことがとても嬉しかった。たとえそれが貴方の同情とか友情であっても構わないのです。…貴方が好きです」

「…おおく…」

「愛しています」

 出てこなくていいのに、はらはらと涙が流れてくる。そんな私の体を大久保はそっと抱いてくれた。

 大久保の心臓が動いている。

 遥かなる鼓動は私と会う前から続いているのだ。

 思い出すのは、初めてこの家で大久保と会ったときの貌。灰色の虹彩を思い切り開いて息を飲み、信じられないものをみるかのような目で私をみてきた。…もし大久保が島津の会長の言うとおりに私を潰しでもしていたら、大久保は島津の家を追い出されなくて済んだかもしれないのに。

 長女の婿ということはいずれ島津の会長になれていたかもしれないというのにこの男は、私を木戸の家で生かすために会長の命令違反などという大層なことまでして…日本に帰れないのはその所為なのではないか…お前…どうしてそこまで…

 大久保、大久保、ありがとう……






「…どんな女性(ひと)だった?」

 私は大久保の胸に額を押し付けた。

 痩せた躯。青褪めた頬。

 傷ついているのは私ではなく、大久保なのだ。

「……満寿のことですか?」

 …マス?

「マスという名前なのか?」

「ええ…寿が満ちると書いて、満寿」

「いい名前じゃないか…」

「…名前負けしてしまったんです」

「そんなことないよ」

「写真…みますか?」

「うん」

 私が答えると、大久保はベッドから抜けて机の引出しからアルバムを取り出し、私に渡した。

 ひらりとめくると、白い病室の壁を背景に、お下げ髪の女性が写っている。女性というよりも、少女といったほうが相応しい。

「…いくつ?」

「18です」

「可愛いじゃないか。というか美人だよ」

「そう…ですかね」

「それにとても優しいひとだ」

「…そうですね」

 なにげない会話をしながら、私は気付いてしまった。大久保の声の調子がすべてを――――――私に教えてくれた。

 ―――――ああ。

 この男は、どれだけ満寿という女性を愛したことだろう。

 長くはもたない命と知りながら。

 たった四ヶ月だ。私と大久保のいままでの生活ぐらいしか保てなかった結婚生活。大久保が言うには重症だったようだから、きっとずっと入院していたのだろう。だから身動きも侭為らぬ体だったはずだ。

 私は幼い頃から病弱だったが、そこまで不自由さを感じたことはなかった。しかも、わずか18年の人生。これからという時期に突然訪れた娘の死に、父親(会長)は怒り狂ったという。

「あのときは、私を恨むしかなかったのでしょう」

 さらりと言う大久保。だが瞳は凍っているようにみえる。それは、いまも心の傷が癒えていないことの証だ。

 大久保は私の体を抱いて自分の膝の上に乗せた。互いにバスローブを着ているので、そのへんは平気である。

「ありがとう…」

 私はアルバムを静かに閉じて、大久保に返した。四ヶ月しかいられなかったから、アルバムは一冊だけである。最後の一枚は、大久保とふたりで写っていた。亡くなる一週間前だと大久保は言った。

 ついていてやれば良かったと、大久保は言わなかった。それはたぶん、彼女についていてやるということは会長の命令を――――私や木戸グループを潰すという命令を――――――実行しなければならないことを指し、大久保はそれに背いたのだ。

 二十歳まで生きられるかどうかと宣告されていたから、まさか四ヶ月目に亡くなると思っていなかったのだろう。

 でも彼女を亡くして、大久保はついていてやればよかったと激しく後悔したに違いない。写真のなかの大久保は、現在よりももう少し肉付きが良かったから、大久保はいまもなお、苦しんでいるのだ。苦しんで苦しんで、こんなに痩せ細って…

 私は大久保の膝の上で、大久保とちょうど九十度の角度で大久保を見上げるようにして座っている。私はローブから出た、大久保の首の筋肉や骨をみたが、浮き出るというよりは肉がこそげているといった感じであった。

 これからは私が大久保の安らぎになれればいいな…

 ここ数日、狂ったように大久保は私を抱いた。その間私は歯を食い縛ったりシーツを掴んだりするしか分からなかったが、さっきも含めて今日からは、違う私になるだろうと思う。

 なぜなら私は、大久保を信じているのだから。

 …ちがうな。

 私はこの男を信じているのではなく、信じたいのだ。

 私一人のために、島津を追い出された彼を。私を守るために、自分の全てを投げ打った彼を。

 そこまで私を想っていてくれている男を、信じたい。

 そして大久保が望む限り、一緒に生きて行きたい。

 これからも、ずっと。

「大久保」

「はい」

「私はお前が好きだよ」

「…木戸さん…」

 私は大久保の貌にかかる優しい色の髪の毛を撫でた。

「お前がいてもいいと言うならば、こうしてお前の傍にいさせてくれないか」

 いまは亡き満寿という女性の代わりに。

 そして私自身の願いのままに。

 言いながら、私は泣いていた。涙が溢れてきて止まらなかった。






 こういうことだったんです。

 「Sepia-2」のあとがきで書いた本番というのは、ふたりの関係の真実といういみで、18禁ネタというわけではありません。現代版の18禁はなぜか書きにくいので、まだ…です。それから晋作、みなさんの頭のなかで長州弁に変換してやってくださいませ。私が書くと下手な方言になってしまうので、あえて標準語・晋作にしました。

 というか満寿子ちゃんを殺しすぎだ私…ごめんね、満寿子ちゃんのことは好きなんですが、どうしてもこうなってしまいました。

 リベンジあります。いつか。
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覆霞レイカ・ぷれぜんつ