ぼんやりと流れる時間には縁がないだろうと自負していただけに、まさかあの木戸さんと同居して穏やかな日々が送れるなどとは夢にも思っていなかった。

 木戸さんはソファに座って静かに庭を眺めている。なにか難しいことを思考しているのかもしれないし、疲れた頭脳を休ませているのかもしれない。数秒毎に、はたり、とおちる睫毛が彼の白い肌に影を作る。美女は三日みれば飽きるとはよく言ったものだが、彼はどれだけみていても時間が足りないようだった。

『トシ』

 と大学で同じ専攻をとっているゲオルクが、凝りもせず俺の肩を叩いてくるのだ。

『なぁ、やっぱりタカは男なのか?』

 木戸さんは、タカシかタカと呼ばれているが本名はたかよしなのだと繰り返し言っても、エレオノーレはタカシと呼ぶし、男どもはタカと呼ぶ。ちなみに俺はトシで通ってしまった。そんな気軽に呼ばれるのは生まれてはじめてである。

 …真面目に学問がしたくてはるばるドイツまで渡ってきたのに、どうも俺のいるところは浮かれた男の多いところらしい。無論、学問馬鹿も数名いるが、俺がゼミの教授陣に気に入られて以来ぎろりと睨まれてしまって、関係の修復は無理そうである。まぁ、たいしたことはないだろう。

 ともかくしつこい悪友に、俺は言ってやった。

『男。間違いなく男だ。残念だったな』

『Himmel noch mal(畜生)!ていうか裸みたのか??幸せなヤツだぜまったく』

『彼は俺に裸をみせるほど余興のきくひとではないさ。偶然だ偶然』

『ふ〜〜ん』

『...Was?』

『Aber nein!』

『…言わないと恐いぞ俺は』

『………』

 ゲオルクは俺の忠告などに耳を貸すつもりはないらしく、その日はいつまでもにやにや俺の顔をみて喜んでいた。政治学と経済学を専攻している俺は、政治学と哲学をとる木戸さんとは行動が違う。ゲオルクは経済学と地理学なので、木戸さんと接点がつかめないままいままできたらしい。…みるからに好きそうなニヤけた野郎だから、木戸さんにとっては好都合じゃないかと思う俺だったりする。

『…で?タカの体はどうだった?』

 ………ほんとうにしつこい。

 しかもひとが気にしていること(木戸さんの裸体)をいつまでも!

 俺は本の束をコン、と机に落として角を揃え、いままで以上に険のある眼差しでゲオルクを睨んだ。

『Leg mal ein neue Platte!(少し違ったことでも話したらどうだ!)木戸さんのことしか頭にないと思われるぞ』

 精一杯呆れ声をつくってやったのに、悪友はへらへら笑うだけである。

 はぁ、と再び溜め息をついて食堂に向かおうとする俺に、同じく政治学+経済学のアマーリアが「食事一緒にいい?」と言ってきた。アマーリアは生まれも育ちもここクライトベルクという女で、ゲオルクをはじめとして顔からして悪(ワル)の男に囲まれている俺にとっては、ようやく落ち着いて話せる学生なのだった。顔も性格も大人しい。大人しいのが実はとてもいいことであると再確認させてくれる女である。

 しかしそのアマーリアまでも、

『タカの話で持ちきりねぇ』

 と言ってきたので俺は再び溜め息である。

『…困ったものだよ。君の半分でいいから、落ち着きなるものを分けてやりたいぐらいだ』

 彼女は笑った。笑いながらトレイの上に皿を乗せていく。俺は好物のGraubrot(黒パン)をがんがん乗せる。この木苺のジャムが美味いんだ…と呟いてジャムをたっぷりとり、ミルクをコップに注ぐ。

 ドイツには三食のうちニ食は加熱調理していない食事で済ませる習慣があり、俺もそうしているが、おそらくビールやパンが日本のものより栄養価が高いことと、水にミネラルが豊富なこともあって、まわりの人間をみる限り、健康には問題なさそうだった。もっとも、毎日同じ味の料理では飽きてしまうので、夕食は和食を含め、食べたいものを作っている。

 アマーリアは香草入りのチーズをとって、「これも美味しいわよ」と俺にすすめてくれたので、それも食べることにした。ヨーロッパはチーズが美味い。

 窓際は満席だったので、俺たちは壁際のカウンターに座った。

『ねぇトシ』

『?』

『タカが、暴漢を投げ飛ばしたっていうのは本当?』

 ……は?

 なんのことだ?と聞こうと俺がパンを千切る手をとめた隣から、知らない男がぐぐぐぃっと体を寄せてきた。

『僕みてたよ!ちょうどタカのうしろを歩いてたんだけど、門から向かってきた男がタカにぶつかってきたんだ!タカは揉まれたんだけどさぁ、僕らが慌てて男を取り押さえようと思って駆け出した瞬間、男が空中に浮いてぶーんと飛んでった!あれどうやってやるの?』

 それだけ言うと男は席に体を戻して、凄かったよなぁ僕あれでタカのファンになったんだ、と言った。

 一方俺の頭は混乱を始めてしまう。

 あの木戸さんが、ぶーんと投げ飛ばしたって?

『……どうやら本当のことみたいね。タカってみかけによらず凄いひと…、…トシ?』

『………』

『大丈夫?手が止まってるけど……トシ?Hallo?…あ、タカが来たわよ、一緒にいるのは彼女なのかしら?あら?…あら…まぁどうしましょう…』

 どうやらエレオノーレに引き摺られて木戸さんが食堂に来たようなのだが、彼の顔をみたアマーリアがぼっと赤面して沈黙してしまった。言っておくが、木戸さんをみて赤面しないヤツのほうが稀であり、木戸さんが入学してから一年たとうというのに、今日も食堂のあちこちからスプーンが手から零れる音が響いてくる。

 で、現在に繋がるのだが。

 彼はまだぼんやりと窓の外をみている。アイボリーのVネックセーターから覗く白い肌が細い首になり、そこに漆黒の髪がかかり、時折彼が頭を揺らす度にさらさらという音がこちらにまで聞こえてきそうな空間にふたりきりでいる状況が続いている。

 ふたりきりで、こんなにも静かで、どうやら俺は嫌われてはいないようだし、そしていまは休暇中だし!

 …木戸さんが女だったらとっくに押し倒している自信がある俺は、こんなシチュエーションにはもう我慢できないと思っていた矢先に、木戸さんが男を投げ飛ばしたことを聞いてしまい、正直どうしてよいやら悩んでいる最中である。

 気持ちを伝えたり体を寄せてみたりした瞬間、「ふざけるな!」と投げ飛ばされたらどうしようかと。

 そしてそれが、あの悪友どもが木戸さんに近づきたくとも(まえの同居人・ユーリが帰郷後も)近づけないでいた理由と分かってしまったから。

 この恋はなかなか前途多難かもしれない。

 俺がふぅと溜め息をつくと、木戸さんがはっとこちらを向いて硝子細工で出来たような瞳を見開いた。

 やはり見惚れてしまう。

「…なんでもないです」

 俺が言うと、木戸さんは俺の気も知らずにふわりと微笑んで、俺の呼吸を止めてしまった。

 無垢なのに、罪つくりなひとだ。






 今夜は飲んでやる。

 そう決めた俺は馴染みの店からビールとワインを大量に買い込んできて、懸命につくったドイツ料理やら和食やらをテーブルに並べている。

 グラスはふたつ。木戸さんが俺の飲みにつきあってくれるかどうかはともかくとして、こうして準備しておけば、少しは飲んでくれるかもしれないから。

 みたところ、木戸さんは酒は飲むが飲まれることはなさそうで、そこがまた俺にとっては辛いのだ。でもまぁ、あの白い肌が上気するのを至近距離で眺められる身分なのだから、それ以上を望むのはやはり贅沢なのだろうか。

 俺は手を止めて階上に耳を澄ませる。

「………」

 相変わらず反応はない。木戸さんは、さきほど郵便受けに届いたユーリからの手紙を読み、早速返事を書いているのだろう。彼は筆まめで、二週間に一通はユーリとやりとりをしていた。ユーリ、憎い男である。

 …俺がここを離れたら、木戸さんはそこまでまめに手紙をくれるのだろうか。

 俺は毎晩、いいいいや、毎日毎日あの顔かたち姿すべてをみているだけで幸せで、ついついそれ以上を期待してしまうのだが、果たして木戸さんにとって俺はどんな存在なのだろう。

 訊きたくとも訊けない言葉が脳裏を駆け巡る。

“木戸さん、俺のことどう思っていますか?”

 ただの同居人ですか。

 ただの日本人ですか。

 ……俺が貴方を抱きたいって言ったら、俺を投げ飛ばしますか?

 …それとも?

「……くぼ」

「…」

「…大久保」

「!」

 はっとすると、木戸さんがつくりもののような貌で俺をみつめていた。

「…最近ずっとぼんやりしているようだが、具合でも悪いのか?体がよくないときにこんなに料理をつくって平気なのか?」

「え……ああ…大丈夫、です」

「ほんとうに?」

「…はい」

「……そう」

 ならいいんだ、と言って彼は席についた。俺も大人しく座る。座るなり俺は木戸さんにじぃっとみつめられて、胸を高鳴らせてしまうのだった。

「…このところ食事は大久保にずっと作ってもらってばかりだな…すまない」

 きゅぽん、と木戸さんがきついはずのコルク栓を一瞬で抜いてしまった。

 …やはりこのひとはみかけによらず怪力なのだ。

 心のなかで、俺は溜め息。

 とは裏腹に、俺のグラスが透明の液体で満たされていく。芳醇な香りが部屋に漂い始める。

「…いいですよ、料理は俺…いえ、私の趣味ですから」

「そう?」

 木戸さんはそう言って上目づかいにこちらをみた。合歓の花のような睫毛で、どうやって男を投げ飛ばすのか、一度投げ飛ばされてみたいものだなどと思ってしまう俺はやはり相当いってしまっているらしい。

 じっと彼をみつめているうちに、木戸さんは小さくいただきますといって俺の手料理(いわせてくれ)を食べ出した。小さな手指を細かく動かして、器用に魚の煮付けを骨から解して、すっと口に運ぶ。無駄のない所作は、育ちのいい証拠だ。

「……お口に合いますか?」

 恐る恐る尋ねると、木戸さんはちらりとまた睫毛を跳ね上げて、澄んだ瞳で

「美味しい」

 と笑った。

 それがまるで可憐な花がほころぶようで。

「……………」

 まずい。

 鼓動が止まらない。

 どうして女じゃないんですか。

 貴方をみていたら同性でもいいと決め付けてしまいたくなるでしょうに!

 俺は、ついつい口をついて出そうな台詞を飲み込むのに必死である。対照的に木戸さんは、気に入ってくれたのか、テーブルの料理をさくさくと食べている。

「大久保はほんとうに料理が上手いな。親御さんが上手な方なのかい?」

「……え、ええ。料理が上手いというか、食卓を大事にする家庭で育ったもので」

「いいことだね。羨ましいよ」

「…木戸さんは違ったのですか?」

「うーん、桂の家にいたときは父が忙しかったし、木戸の家に入ってからは大人は全員忙しくて」

「そうですか……」

 この家に来て数日目に、俺は木戸さんに、木戸興業の息子さんですか、と訊いてしまった。そんなことはとうの昔に知っていたが、日本有数の企業グループのことを聞かないのもまずいかと思い、白々しく聞いた俺に、木戸さんはためらいがちに「うん」と答えてくれた。

 彼自身、あまりそういうことは気にしたくないらしい。彼曰く、「自分は養子で、凄いのは木戸の家であり、自分ではないから」だそうだ。

 尤も、俺に言わせれば木戸興業に養子入りを望まれること自体かなり凄いことなのだが、どういうわけか、このひとに、もっと持っていいはずの気負いや気概は感じられない。

 いつか父が言っていた。ほんとうに上流の人間は、相手を威嚇するような、相手に気を張らせるような雰囲気は一切もたないのだと。柔らかく、空気のような存在であり続けられるのが、本物の一流人だと。

 彼がそうなのだ。

 そしてそういう人間をもうひとり、俺は知っている。






 俺の食事の量と木戸さんのそれとは、普段は明らかに俺のほうが多いのに、今夜はどうしても俺の食欲が進まず、木戸さんのほうが多くなってしまった。だから食後酒の時間になって、彼は首を傾げて俺をみつめていた。

「…へんだな、私のほうが多く食べるなんて、やっぱり大久保へんだよ。休み中なのだし、いちど病院へ行ったほうがいいんじゃないか?」

「……」

「大久保」

「……は、」

 俺の返事が芳しくないものだから、木戸さんは椅子から軽く体を浮かし、腕を伸ばして俺の額に白い手をあてた。近づいてきたアイボリーセーターの袖からはみ出る手首の華奢さ加減に、俺はどきりと胸を高鳴らせてしまう。

「………」

 このひとは自分がどういう目でみられているのかまったく気が付いていないのか。

 いぶかしむ俺をおいて、木戸さんは空いている方の手を自分の額にあて、どうやら熱をはかっているらしい。小さな手が気持ちいい。

「…熱はなさそうだけど…うーん…熱の出ない病気なんて沢山あるからな…」

 木戸さんは心底心配そうに俺をみながら、俺から手を引っ込めて椅子に座りなおした。いま彼の大きな目に映るのは俺しかいないのだ。

 俺しか。

「…木戸さん」

「うん?」

「これは病気ではありません」

「そう?」

 木戸さんは飲みかけのワイングラスももたずに俺の話を聞いてくれている。そういうこと細かいところにも惹かれているわけで。

 人形のような容姿に、きれる頭と繊細なのだろう神経、とても俺につり合うとは思えない社会的地位と、意外なところで可愛い性格。そして病弱に、剣道免許皆伝そして怪力というアンバランスの見事さ。

 ほんとうに人間なんだろうかと思ってちょっと体の距離を縮めてみれば、きちんと呼吸をし体温ももっている。上半身だけだが、体もみたし人間の造りをしていた。

 そしていま彼のほうから与えられ俺的不可抗力で接してしまった、彼の肌の温かさよ!

 ……我慢ならん。

 俺は由緒正しい九州男児なのだ。

「木戸さん」

「うん?」

「これから俺が言うことを、聞いてくださいますか?」

「……大切な、こと?私に言っていいようなことなのか?」

「貴方じゃないと意味がないんです」

「…うん…」

 息が上がってしまっているが無論酒のせいではない。俺は落ち着くために一度目を閉じ深く深呼吸して、目を開けた。

 そこにいるのは間接照明に照らされた、俺の憧れのひとで、既に憧れ以上の存在になってしまっているひとである。

 このひとはこの世にひとりしかいなくて、地球上でいまここにしかいないひとで、だから俺はどうしても諦めきれない。

「木戸さん」

「…?」

 すべての思いを込めて。

「好きです」

「……?」

「はじめて会ったときから」

 そう言うと、彼はそこでようやく俺の言葉の意味が分かったようで、大きな黒い目を丸くした。その目とみつめあう。

「え…」

「私がお嫌いですか」

「あ…いや…そんなことは」

「じゃぁ好いて下さっていますか」

「……でもそういう意味では」

「私は貴方になら投げ飛ばされて構いません。私がお嫌いでしたら、どうぞ投げ飛ばしてください」

「そんな…」

「貴方が好きです」

「…っ」

 たとえ俺が、貴方から何度嫌われようと拒まれようと、この気持ちが変わることは決してないのだ。

 思いながら俺はがたんと乱暴に席を立ち、木戸さんの席まで歩いた。木戸さんは、みるからに体を強張らせている。俺は固くなった彼の手首をぐいと掴み、夢のように整った彼の貌に自分の貌を近づけ、煌いた彼の虹彩をじっとみつめながら息を殺して気持ちを押し込めるようにして口付ける。

 ああなんて滑らかな肌。

 俺は彼を椅子から立ち上がらせ、口付けたまま抱き締めた。

「んぅ…」

 そして彼は俺を投げ飛ばさなかった。







 (偏)愛の告白編でした。

 投げ飛ばしたほうがよかったですか(笑)。

 私、大久保に逆らえない木戸さんが好きなので。(なんてこと)


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