クリスマスを明日に控えた日の朝。
木戸さんが起きてこない。
何事にも神経質な彼が朝の十時を過ぎても私室から出てくる気配すらないというのは、明らかに異常である。そう判断して、俺は明るい木造りの階段を昇り、俺の自室の隣に位置する部屋の扉をノックした。
「…木戸さん?」
返事はない。耳を済ませたが応えるような気配はなかった。
いぶかしんだ俺はドアノブを捻り、静かに扉を開けた。
「木戸さん入りますよ。おはようござ…」
そこまで来てようやく事態の掴めた俺は慌てて部屋に入り、彼の枕もとに飛びついた。
「木戸さん!」
「………くぼ…」
「酷い熱だ」
額に張り付いた漆黒の髪を寄せて宛がった俺の掌はすぐに熱くなる。
形のいい長い睫。
…見惚れてしまった。
「お、往診を頼みましょう」
「……でも」
「でももかかしもありません。呼びます。すぐ近くですから、私は迎えに行ってきます。それまで大人しく眠っているんですよ、いいですね!」
言うなり俺は部屋を飛び出した。
クリスマスイブだったが、幸い医者は往診に応じてくれた。眼鏡を掛けた、既に老境に入っているだろう彼は往診の道具をもち、白衣の上にコートを引っ掛けてすぐに俺の隣に並んだ。こういうときのために予め医院の場所を知っておいて良かった。
町はクリスマス一色である。日本と異なりクリスマス商戦が目立つようなけばけばしさはなく、各家庭の窓ガラスが金や銀の星で飾られている程度のささやかな、それでいてどこか荘厳な雰囲気が醸し出されるように感じるのは、やはり国柄だろうか。
アパートに着くと俺は二人分のコートをかけ、すぐに階段を上がった。部屋では顔を赤くした木戸さんがぼんやりと俺たちが入るのをみていた。医者は診察をし、俺達がともに外国人であることを前提にして英語交じりで処方する薬とその服用の注意などを詳しく説明した。
肺炎には至っていなかった。たんなる上気道炎――――風邪である。俺はほっと息をついた。
医者から言われたのは、「体を温めて、こまめに汗を取って、水分を充分に取らせて、じっくり休養させること」だった。
「彼はかなり疲れがたまっている」とも言った。
俺が玄関まで送ると、医者はドイツ語でメリークリスマス!と言って手を上げて帰っていった。そとは降ってはいなかったが雪が少し積もっていた。息が白い。天気予報では今夜は少し寒いクリスマスになるとのことだったので、木戸さんが寒がらないようにしなければと俺は気を引き締めた。
木戸さんの部屋に入ると、安心したのか、彼はぐっすり眠っていた。俺はパタリと扉を閉めた。
「ふぅ…」
彼は俺に比べれば体が弱いようだった。厄介なのは、苦しくても我慢をしてしまうということで、もっと早くに対処していればこんなに寝込まなくて済んだかもしれなかった。彼はここのところ大学の図書館から借りてきた書物を一心不乱に読み耽り、睡眠も食事もろくに取っていなかった。おそらくはそれがこの風邪の原因だろう。
嫌われたくなかったためになるべく干渉しないようにしてきたが、今度からきちんと彼を監視していよう、と俺は心に誓った。俺は水差しとコップをトレーに乗せて、木戸さんの机に置いてきた。そのままそこで、彼の額に乗せたタオルの交換をしばらくしていた。
それから台所で木戸さんでも食べられるような料理を拵えた。ポトフを煮込んでいる間に、ここでは貴重品の日本米で粥を作った。彼の食欲が戻ったらすぐに応じられるように、キオスクで買ってきた米酢をたっぷり使って鶏肉とゆで卵を醤油ベースで煮た。作っているうちに俺のほうも腹がすいてきたので、キャベツを柔らかく煮てからバルサミコ酢に漬け、ソーセージ(Wurst)のつまみ食いをしながらドイツビール(Bier)を飲んだ。
「美味い」
さすがビールの最高峰、と俺が勝手に言っているだけなのだが、バイエルン純粋法で醸造された混じりけのないビールは、やはり世界一だと思う。
これで健康な彼がいれば文句はないのだが。
俺は恨めしげに冷蔵庫をみた。なかには菓子屋から買ってきたTorteが入っている。甘いものも好きだと言っていたから、ショートではなく7インチの丸いケーキにしたのだ。だが病み上がりでは流石に食べにくいだろうから、Torteの全部は俺の腹に入ることになる。もちろん、彼に断ってからの話だが。
食事がだいたい整ったので、俺は再び階段を上って木戸さんの部屋に入った。
ノックをすると、なにかくぐもった声がしたので驚いた俺はいきなりドアを全開にし、再び閉めた。
「…失礼しました」
彼は着替え中だったのだ。
俺は占めた扉の隣の壁に背を凭れさせて、彼が着替え終わるのを待つことにした。
「……」
驚くほど痩せている。俺も見た目健康とはいえない体格をしていて痩せぎすとあだ名されるのが常なのだが、木戸さんのほうが上背がない分酷くやつれてみえた。一瞬みただけだったが、肋骨も鎖骨も浮き出て薄っぺらい躯であった。あれでは二の腕も多分骨と皮だ。
彼はたしか剣道をしていたはずだ。しかし手首は細く、気に入っているのか、眠るとき以外は休日でも外すことのないローレックスの腕時計のバンドがゆるゆるなのだ。
体重も随分軽いだろうな、と俺は思った。
「………」
病人を前に、何考えているのだ俺は。
俺ははぁと溜め息をついた。
彼と二人きりで過ごして、二週間が過ぎた。あの人形のように透ける肌や本人まるで自覚のない濡れたような瞳を前にしてこの調子では、果たして俺の理性がいつまで持つか甚だ疑わしい。
『トシ』
と、大学に入るなり打ち解けたゲオルク・シュランが言ってきた。
『君と別の日本人、あれは本当に男なのか?初めて見たときから僕らはどうしても解せない』
ゲオルクの悪友らがゲオルクの隣でAch ja!と言った。ゲオルクの話では、木戸さんにはこのアパートで大学入学時から同居していたユーリというポーランド人が四六時中ついていたために、近づきたくとも近づけなかったというのだ。
ユーリ・クラシオヴァ。バルト海沿岸のグダニスクで大きな貿易会社を開いている家の一人息子で、父親は日本びいきで近く日本の企業と提携してアジアに進出する予定と聞いた。木戸さんは彼の父親が病で倒れたために彼は帰国したと言っていたが、もしも見込みがないのなら莫大な遺産で大学の卒業ぐらいまでは充分に持たせるだろう。つまり、息子を帰国させたということは、父親が療養する間息子に企業を任せるということであり、やはりクラシオヴァ貿易はロシアに見切りをつけて日本に進出するつもりなのだ。
提携先は東京か、それとも大阪か。中国、あるいは九州か。
「……」
企業は、互いの信頼関係で成り立っているわけでは残念ながら、ない。すべて実力。かつて巨大だったろうがなかろうが、時代の先を行く人間を手に入れた企業が勝つ。無駄なものは潰す。弱いものは吸収される。そして、同程度のものが隙をみせた瞬間に奪い取る。その人員も資本もなにもかも。
裏切りは信頼の裏返しではなく、堕落した信頼関係の延長に手をこまねいて待っているものなのだ。
クラシオヴァ貿易は兎も角、木戸興業が倒れでもしたら木戸さんはどうするのだろう?生家に帰ってもすることなどないはずだ。もし他に行くところがないとしたら、
「貰ってしまおうか、な」
あの悪友たちに奪われてしまうまえに。
ふと、言葉に出して言ってみた。すると、か弱い声が俺の背中のほうから
「………自分でするよ……」
と言ってきた。
「ええっ?!」
進んで俺の花嫁になってくださるんですか?
慌てて振り向いた俺の視線の先には、やはり陶器のようにつるりと整った顔(かんばせ)が、その優艶な眦を赤くして立っていた。白魚のような手には、いま着替えたものであろう、彼のパジャマがあった。
どうやら彼は自分でこのパジャマを洗濯する、と言ってきたようである。自分の世界に恍惚としていた俺は、無論一人で勘違いしていたのだった。
俺は木戸さんをみながら言った。
誘うような、赤い唇。
「…いけません。そのお体ではとても無理です。私がしますから、貴方にはきちんと休んでいていただかないと」
「……、」
そこで彼はコホ、と咳をした。辛そうだ。
俺は彼の手からパジャマを取って彼の背中に手をやり、有無を言わせず彼をベッドへ連れて行った。
意外にも彼は何も言わないまま、大人しく布団に入っていった。
「……ありがとう…」
「食事が出来ていますから、必要でしたらすぐに仰ってください」
彼はこくんと頷いた。
麗しかった。
それから彼は昏々と眠りつづけ、夜の11時まで眠っていた。結局彼は水以外の何も口にできなかったので、俺はひとりで夕食にした。遅い夕飯を終えても階上にはまだ動く気配すら感じられなかったので心配で階段を上ると、彼は体温計で熱をはかっていた。
「何度ありますか?」
と尋ねると彼は電子体温計を俺にみせた。
38.4℃
と記されてあった。
「これでも…大分下がったんだ…」
俺が体温計の表示に眉を顰めると、まるで言い訳でもするかのように木戸さんはそう言ってきた。数時間前までは40℃近くあったと言う。
俺は彼に断って部屋のすみにあるスツールを持ってきて、そこに座った。
「きっとこの地におわす神様が貴方にお休みを下さったのですよ」
言うと彼は苦笑した。
「…大久保は…平気なのか?」
「なにがですか?」
「エレオノーレたちに、…コホ…ッ…クリスマスパーティに誘われていたのだろう?」
「ああ」
大学に通うようになってから、どういうわけか俺は性を問わずに遊びやら勉強やらに誘われることが多くなった。日本にいた折には周囲に恐がられていただけに、こちらに渡ってからの豹変ぶりには俺自身驚いていた。
エレオノーレというのは、アメリカのとある大企業の会長の孫娘である。ノリのいい、明るい女で、殊更に木戸さんを気に入って、彼と同居している俺にもやたらと声をかけてきた。そのエレオノーレが主催するアメリカ式クリスマスパーティに誘われていたのだった。
木戸さんは、気難しい友人が訪ねてくるかもしれないからと断った。その友人とは、高杉晋作のことだろう。
「断りましたよ。彼女たちに取って喰われるつもりはないんです」
俺がそう言うと彼は掛け布団の上端を両手で摘んで、さも可笑しそうに笑った。
はにかむような、少女の顔。
と思えば、やけに老齢じみて疲れた顔。どちらも彼の本性らしく、この二週間、ころころ変わる彼の表情に俺の鼓動はついていくのに必死だったのだ。
体の奥から湧いて出る言葉が、つい唇を割りそうになるから。
そうしていつか、溢れてきてしまうだろう。
鬱憤を振り切るかのように、俺は話題をほかに振った。
「雪だ」
「……ん?………」
「雪の音がする。降りだしたみたいです」
「……そうか……」
会話が途切れた。彼も屋根に響く微かな雪の音に耳を澄ませているようだった。
そしてその沈黙を破ったのも彼だった。
「…大久保」
「はい」
彼は布団のなかから腕を出して彼の書棚を指差した。
「あそこを…開けてくれないか?」
言われて、俺はスツールから立ち上がってそこを開けた。そこには綺麗に包装された紙包みがひとつあった。金と緑のリボンがかけられている。これはどうみてもクリスマスプレゼントだった。
…まさか俺へのものなのか?
はっとして俺は木戸さんをみた。木戸さんはいまも顔が赤くてまだ辛そうである。
「ちょっと待って下さい」
言って俺は木戸さんの部屋を出て、隣の自分の部屋から紙包みを持ってきた。紙袋を胸に抱えてもってきた俺の姿を、ベッドに寝ている木戸さんはなにか不思議なものでもみるかのような顔でみていた。
「……それは……」
俺は自分の胸に抱えていた包みを彼に渡した。
「気に入っていただけるといいのですが」
それは俺からのプレゼントだった。
「…私に…?」
はい、とプレゼントを枕もとに置いた俺を、彼はぼんやりとみつめてきた。嬉しいような、恥ずかしいような気分に陥る。
彼は俺の言葉を時間をかけて理解しようとしていた。だから俺はスツールに座りなおして、彼の思考が戻るのを待った。
やがて彼はベッドの上のもうひとつの、さっき俺が木戸さんの書棚から出したほうの紙包みを、俺に差し出した。
「…これは私から…」
「は……」
やはり俺へのものだったのだ。歓喜で胸が一杯になった。
「…一緒に開けようか…?」
と、木戸さんが言うので、俺達はふたりでプレゼントを開けることにした。木戸さんはベッドに横になったままだから、開けにくいときは俺が手を貸した。
「………」
そしてプレゼントの中身を見合って、また笑った。
俺達はサイズ違いで、色も形も同じ皮製の手袋を互いにプレゼントしていたのだった。
俺は、体を冷やしやすいという木戸さんの手が凍えないように、そしてバーバリーのコートに合うようにと選んだのだが、これでめでたくお揃いである。
「…ありがとう大久保…」
「……こちらこそ…」
そのとき、カーンカーン、と教会の鐘が鳴った。
12時だ。
俺が枕もとの時計を確認すると、木戸さんが窓の外から俺のほうへ視線を移して言ってきた。
「Merry Christmas!…ではないか…ドイツ語では、なんと言うんだ?」
声がだいぶ掠れている。低いとも高いともつかぬような不思議な響き。その声がこうして俺を呼んでくれている。
「Frohe Weihnachten!」
玄関で往診にきてくれた医者が俺に言った言葉を、木戸さんに向かって言った。
彼は笑った。
優雅な白薔薇の蕾が綻んだような微笑を祝福するかの如くに、空から白い雪が降りてくる。俺の胸にある、絶え間ない彼への想いと重なりながら。
いまはまだ、このままでいい。彼の傍にいるだけで、何も知らせないまま、何もしないままで。
いまはまだ このままでいい。
いまはただ、静かに……
今回の更新では、まず二人の出会いと状況を書きました。おそらく次の次あたりが、本番なのではないかと(なにの?)。
しかしもの凄い季節外れ(笑)。