RAKURAI 2



 良い香りがする。土方さんの車と「サロニカ」に漂っていたあの香りが、嗅覚だけではなくて聴覚や触覚にまで及ぶような、それでいてどこかに溶けてしまいそうな、あの、

「………」

 視界の右側に、紺と深緑の不定幅ストライプ模様が見える。薄手のシャツの下で肩甲骨が浮いていて、このひと痩せたなぁ、と思った。日を追うごとに痩せて、細くなって、なんだか髪の毛まで茶色に見える時がある。出会った頃は真っ黒だったのに。

 こうやってこのひとはどんどん薄くなって、どんどん軽くなって、いつしか空気に融けて行くのではなかろうか

 引き止めたくて手を伸ばそうとしたとき、意外にも腕が重くて上手く持ち上がらず、もぞもぞと布団の中でもがいてしまった。

 ―――――布団?

「!」

 一人で勝手に驚いた俺が起き上がろうとすると、彼が振り返った。

「起きたか」

「……土方、さん」

 振り替えた彼はやっぱり薄くて、―――――髪は茶色だった。

 自分の目がおかしくなったのだろうかと頭を左右に振りながら、俺は起き上がろうとした。土方さんが体を捻ってこちらを見て、腕を伸ばし、俺の体に掛かっていた二枚のタオルケットが体の前方に倒れるのを、白い掌で押さえながら、俺が起き上がってソファに座り直すのを介助してくれた。

 土方さんの体の部分部分が近づくたびに彼の香りがして、クラクラする。上から二つ目までのボタンを外したシャツから覗く肌が艶めかしくて―――――クラクラする。

 眠気の残る頭を軽く振った。

 視界に入って来る家具を見たことが無い。マホガニーのチェストだ。綺麗な。

「ここ……土方さんのお宅ですか」

 訊くと彼は、ああ、と言った。

「お前が途中で寝たからよ。お前ン家(ち)はだいたい知ってるが、管理人常駐で、オートロックじゃねぇだろ? 勝手にお前の鍵を使うわけにもいかねぇから、うちに連れて来た」

 土方さんは、先程まで本を読んでいたらしい座卓を少し向こうに追いやって、俺と向き合うようにして座卓に座った。黒のジーンズを履いた脚は、やっぱり痩せていた。

 うちに連れて来た、と言うことは、ここは土方さんの自宅マンションと言うことになる。今日、俺がキスして、キスした土方さんのプライベートルーム。

(………)

 急に動悸がして、眠気が一気に覚めた。

 土方さんはそんな俺に、座卓の脇にあったペットボトルを差し出した。俺の好きなクールマイヨール。いただきます、と言ってキャップを開けようとして、肩甲骨がひきつった。

「いた、」

 キャップを上手く開けられずに固まった俺からペットボトルを取って、土方さんはきゅっとキャップを開け、ほらよ、と言ってもう一度俺に差し出した。常温になっていた水が旨いと感じて、三分の一ほど飲んだ。飲んで、はぁ、と軽く息を吐くと、土方さんの白い喉仏が上下した。

「…お前な、」

「はい」

「背中に、ひびが入っているそうだ」

「………は…?…」

「右肩甲骨と同じ側の肋骨二本に、軽くだがひび割れがある、為兄がそう言ってたぜ。レントゲンは撮ったのか?」

「…はい。松本先生からは何も言われませんでした」

 言うと彼は、はぁん、と言って目を細めた。アイボリーの壁紙に反射した間接照明に照らされた睫毛が長い。睫毛も茶色に見えた。

「レントゲンでは写らねぇぐらいの、小さいヒビなんだろ。それじゃぁ、診断書で打撲扱いになっちまわぁな。……ま、あのヤブ医者に打撲と亀裂骨折で全治一か月とか診断書書かせれば、傷病休暇取れるだろ」

 日野署は三十五名の刑事課署員で成り立っている。三十五名で六日間の当直を回す都合、俺たちはだいたい六日に一度の当直をしている。一回の当直で五、六名の刑事が刑事課の当直室に集まって、敷いた布団のうえでごろごろしながら事件が起こるのを待っていた。起こらない夜には皆で爆睡するか、布団に持ち込んだパソコンのキーボードを叩く。

 骨にひびが入った背中では、そのどちらもが難しい。背中にコルセットを付けなければならないかも知れない。

 だから治るまで休んでいろ、これは俺の命令。

 いいな、

 と土方さんは言った。

 俺には、はい、と答えるしかなかった。ここで無理をしては、治癒に時間がかかり刑事課全体に迷惑をかけることになる。それは避けたかった。このひとが、

 山南さんや鎌足さんにこれ以上責められるのは嫌だから。

 このひとにあんな貌(かお)をさせるのが、嫌だから。

 世界でいちばん、美しいのだから。



   落雷(二)




 ふたりきりの空間は、息苦しいのか嬉しいのか分からない。

 マホガニーのチェストの上を見ると、時計の針は十八時二十分を指していた。そんなに時間が経っていたのか。

 俺は基本的にどこでも眠れる体質だが、サロニカに入ったのは、確か午後二時頃。あそこで猛烈に眠くなって、そこでの半分以上の記憶が無いと言うことは四時間近く、俺は眠りこけていたことになる。ほぼ毎日七時間の睡眠を取る習慣があるが、つまり今日だけで半日近くを睡眠していた…

「すみません。こんなに眠るとは思ってもみなくて、」

 意識の無い俺を負ぶってこの部屋まで運んでくれたのか、と思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。土方さんは、男にしては随分痩せているから。

 痩せたのだ、間違いなく。

 出会った頃よりもずっと、このひとは細く薄くなった。インターカレッジの団体戦で優勝した時は、筋肉がもっとあって、もう一回りは大きかったと、陽介が言っていた。顔だけは変わっていないが、別人に見えないこともない、と、普段は明るい陽介の顔が少し翳ったのを覚えている。

 陽介は俺の一つ年上の従兄弟で、俺と同じく土方さんの大学の後輩だった。写真を撮るのが好きだった彼は当時大学の報道部に所属していて、構内や部活動の様子を頻繁に写真に収め、上手く記事にした。卒後は大手メディアに勤めて、いまはとある新聞の文化部キャップをしている。政治部キャップになるのが目標の彼は、既に二人の子持ちだ。新聞の文化面の取材に後輩と共に来た陽介がたまたま、日野署で土方さんを見かけ、俺にメールを寄越したのだ。

 あの痩せ方は異常じゃないか? 大丈夫なのか?

 陽介の記憶のなかの土方さんは、細身ではあるが引き締まった筋肉をして、良く動き良く怒鳴っている人だった。顔つきももっと精悍さがあったと言う。

 いま俺の目の前に座る土方さんには、精悍さの欠片も感じられないと言って良い。肌は白いと言うより蒼褪めて、真っ黒だった髪の毛が照明に透けて明るい栗色になっている。照明が当たっていない箇所の髪も、やはり茶色に見えた。頬もこけ、その分鼻筋が通って、両目が大きく見えて壮絶に、

『綺麗なのは変わってないけどよ』

 陽介が電話口で溜息を付いた。

『別人だ。鬼の土方先輩じゃねぇよ、もう。あれじゃまるで、』

 霞かなにかじゃないか―――――

 陽介には、そうみえたのだ。彼が言うには、撮影とは、単にシャッターを切れば済むものではない。そのもの若しくはひとが持つ霊魂までもを収めようとしない限り、物体だけが写ってしまう。そんなものはコンピューターに任せれば良いのであって、人間がカメラを持って撮影するなら、人の心をもつ人間が、相手の物体と霊魂を再現するようにしなければならない。

 その持論がある陽介が、土方さんのことを「霞」と言ったのは、俺が彼の事を「薄い」とか「空気に融けそう」と感じるのと同じ意味合いだと思う。

 存在そのものが、透けそうなのだ。

 こうして目の前にいるのに。

 土方さんは俺の目を見て、悪かった、と言った。

「悪かった、殴ったりして」

「―――いえ…」

 土方さんの平手打ちで腫れに腫れていた左頬は、サロニカで治療されて、いまはさほど痛くないし熱も治まっていた。精油を塗布したあとでガーゼを貼られてはいるが。

 土方さんと同じ系統の香りが、ガーゼから漂ってくる。ふわふわと俺を包み込んで、俺に浸透していく。土方さんの声も、染み入っていくようだった。

「昼間の、ことだけどよ」

「…はい」

「……俺も言っとく」

 ふぅ、とした息の後で彼の声が続いた。

「俺は男だし…正直――――そういうの、分からねぇ。それに俺は、お前が思っているようなヤツじゃねぇよ」

 たぶんお前は俺を買い被り過ぎ。

 言って土方さんは、軽く瞼を下げて口の端を軽く上げた。自らを卑下する際の、彼の癖なのだ。

「仕事してる時と普段の時の中身ってのは、違うもんだぜ」

 諭すような声が間接照明に照らされた少し暗い部屋に響く。男にしてはトーンの高い声は、実は子供に好かれている。署で保護された身元不明の子供たちは、鎌足さんと沖田さんだけでなく、土方さんのことも矢鱈と気に入った。細長い脚に絡みつかれては「遊んでー」とか「だっこー」とねだられ、うるせぇガキども、と言いながらも一階を追い掛け回されたり、痩せた背中に飛びつかれたりしていた。甥と姪でうんざりするほどガキには慣れている、が彼の口癖だったが、子供は正直だ、子供たちが俺に言うには、あのひと良い匂いするもん、ママみたい、なのだった。

 相変わらずの花の香りと、やや高めの声で、俺の精神が和らいだり高ぶったりするのを、このひとは知って、戸惑っていた。けれど俺は、想いを伝えたことを、後悔していない。骨にヒビが入った背中を引っ叩かれて、かなり痛かったのだが、そのあとサロニカに俺を連れて行って、ためにいさんに治療をさせて、俺を自分の部屋に運んで寝かせたのは、戯れ付く子供を嫌がらない彼の中身そのもののように感じるからだ。

 少ないが病床のある松本医院に俺を連れて行けば済むことだったのに。まして松本先生は、土方さんの血縁だと言う。似ていないようで、似ているのかもしれない。松本先生は、口は悪いが腕が良い事で有名で、敢えて憎まれ役を買って出るところが、良く似ていると思った。

「分かって欲しくて、好きだと言ったわけじゃありません」

「…?」

「俺はあなたを、好きでいたいです。あなたの周りに、誰がいても」

 十秒以上の沈黙があった。

「……俺は………お前が思ってるようなヤツじゃねぇよ―――――山崎、」

 言って土方さんは、両膝の上で左右の手を組み合わせて、俺と向き合った姿勢のままで、軽く瞼を伏せた。

「お袋さんは、元気なのか」

「はい。最近は親父とバドミントンをしています」

 一時は両脚どころか両腕さえ上手く動かせなかった母は、俺を始めとする家族や伯父叔母、そして健康情報に詳しい家政婦さんの力で、徐々に回復していった。車椅子がなくても移動できるようになってからは、親父と一緒に温泉を巡ったり、近隣に泊まり掛けで旅行に行ったりしている。昔大好きだったテニスが出来るまでリハビリを頑張ると言って、親父は来年のウィンブルドンに連れて行きたいとまで言うようになった。

 母が発症してから、飲酒量が増えた親父。が、仕事を放りだして早くに帰宅したと思ったら、庭で花をいじっていた俺に言って来たのだ。

『丞、わしにも園芸は出来るか??』

『―――親父、「出来るか」やないねん。「やる」んや』

『おお、そやな。やるんやな、やったるわ!』

 そして初めて親父が育てたメアリーローズと言うイングリッシュ・ローズの花束を受け取った母は、大粒の涙を零して喜んだ。親父がプロポーズをした時に貰った花だと言うその薔薇は当時最新の薔薇であり、明るいピンク色で直径が十センチ程度の、強い香りを放つ花を咲かせる種類で、母を喜ばせようとした親父が、すぐ近くにある伯父の家の庭で俺とこっそり育てたのだった。

 あれから、母の顔には感情が更に戻った。ロボットのような堅い表情ではなく、人間らしい容貌になった。今度は親父と一緒に花を育てたい、そう言って来た母に、らしくなく親父も涙した。

 夫婦には様々な形があることは知っている。刑事になってから、嫌と言うほど崩壊した夫婦を見て来た。同時に、心が洗われるような深い情によって繋がれた夫婦も見て来た。独身の俺には、どれが正しい夫婦像なのかは分からないが、自分は良い両親に恵まれたと思っている。体が壊れても、心が壊れたわけではない母を、不器用ながらも精いっぱい愛そうとしている親父をみているから。

 が、土方さんには生まれた直後から両親が居ない。

 ふたりとも、このひとを置いて、逝ってしまった。

 七人もいる兄弟姉妹のなかでただひとり、このひとだけが、彼らを知らないのだ。

 けれど俺には何となく、土方さんの両親と言う人たちが、みえる気がした。きっと、美しい夫婦だったのだろう。

 松本先生やためにいさんの口調からすると、芙蓉さんと言う土方さんのお母さんは、物静かで優しい女性なのに、肝心なところは絶対に譲らない性格のようだった。

 お母さんに、そっくりやないか

 俺も土方さんも、会った事が無い芙蓉さん。でも彼女の姿を、俺はいま目の前でみているように思う。

 芙蓉の花言葉は確か、「繊細な美」或は「しとやかな恋人」である。鎌足さんが知ったら激怒するだろうが、俺はこの花言葉は、土方さんにぴったりだと思った。鬼だの悪魔だのと呼ばれてはいるが、本物の悪魔に喜んで近寄る子供はいないだろう。彼は子供だけでなく、動物にも好かれる性質で、永倉さんが可愛がっているパトラッシュと言うサルーキは、土方さんを見つけると即行で駆け寄って大ジャンプで飛びつくのだ。彼は顔じゅうを舐められても大して嫌がらないし。

 子供と動物は純粋だ。成人の人間よりも言葉を持たない彼らは、言葉ではないところで相手を理解する。サルーキはもともと猟犬で、自分で考える傾向が強いが、パトラッシュもサルーキらしく、自立心の旺盛な犬だった。そのパトラッシュがいちど土方さんにくっつくとなかなか離れようとせず、永倉さんが落ち込むのだ。だから永倉さんは、土方さんが出現しない日曜日の午前中にパトラッシュを河川敷で散歩させている。土方さんと遭遇しようものなら、土方さんにリードを奪われてしまうから。

 そんな土方さんの性質を、俺なりに理解しているのだが、当の土方さんは、違うと言いたいようだった。

 大阪の母の話を持ち出して、何を言いたいのだろう。

 俺は彼の話を聞くことにした。

「パーキンソン病だったよな、お前のお袋さん」

「はい」

「体がぎこちなくなるんだっけか」

「そうです。自由が利かなくなって、歩いたり物を持ったりするのが難しくなります。うちの母親はかなり回復した方ですけど」

 土方さんのお母さんは、土方さんの誕生と引き換えに、亡くなった。同じ母親でも大違いである。一方は病気はあるが生きていて、もう片方はとうの昔にこの世から消えた。両親の死を未だに知らない俺と、生まれた瞬間から両親が無かった土方さん。

 同じ人間で、同じ警察官なのに、なにもかもが違った。

「また、悪くなることはあるのか?」

「…医者が言うには、基本的に年々悪化する筈の病気だけれど、うちの母親については年々回復しているから、再度悪くなることはあまり考えない方が良いのではないか、だそうです」

 パーキンソン病は、段々と全身の筋力が落ちて、最後は寝たきり生活になって、肺炎で死ぬことが多い。筋トレをしたくても、関節が上手く動かず、トレーニングが出来ない。母親の主治医は、パーキンソン病と言っても典型的なものとは異なるのかもしれない、と言っている。

「……そうか。もう、悪くならなけりゃいいな」

 言って土方さんは、また少し笑った。先程の笑いとは違う、唇が穏やかな形で、俺は少しほっとした。自分の好きなひとが、自身を卑下する様子は嫌だった。

 浅く呼吸をして、彼は言った。

「俺はよ、」



「生まれつき、コラーゲンが異常なんだとよ」



 突然の言葉に、俺は声を失った。

 土方さんは、唖然とした俺の目の前に自分の右手を差し出して、左手で右手の指を次々と、横側に折り曲げ始めた。普通は垂直方向にしか曲がらない筈の指の関節が、左右に曲がって、指の間があり得ない方向にぐねぐねと広がる。

 思わず首を前に出し、気が付けば俺は彼の手を自分の手で触っていた。男にしては白くて細い、と思っていたが、確かに、

「……柔らかいですね」

 関節が、と俺が呟くと、土方さんは俺が触っていた手を元の、両膝の間に戻して、膝の間の空間に垂らした。だらりと下がった指が艶めかしい。そこだけ見れば、女の静脈の浮いた手にみえてしまう。

「こんなのが、全身なんだぜ。指も、手首も、足首も、足の指も、肘も膝も、関節が動きすぎてよ、ガキの頃は脱臼ばかりしてた。だから、勝っちゃんの道場に通って、とにかく自分を鍛えるしか無かった。無いものを求めるンじゃなくて、あるものを鍛えるしか、出来ないからよ」

「異常なのは、関節だけですか?」

「肌も爪も異常、ま、弱いンだな。肌とか筋肉とかがぼろぼろで、病院暮らしをしなきゃならねぇレベルではなくて、見た目は正常なんだが過度の負担に耐えられないコラーゲン、と、松本は言ってたな。皮膚は普通の半分くらいしか厚みがねぇし、髪の毛も段々細くなってきた。」

「だから、茶色の髪の毛に見えるのですか」

「…だろうな」

 土方さんが両目を俺の右斜め前の下方向にずらして、俯くような視線になった。だからお前の目には、異常なコラーゲンで出来た俺が、ちっと変わった面(つら)に見えンだろ、とも付け加えて。

「原因は……俺のお袋が、…だいぶ前に死んだんだが、二世代の従兄妹婚で生まれたから、らしい。お袋のもとの苗字は、更日(さらか)っつってな、お袋以外の兄弟は全員早く死んだ。従兄妹婚を二回もしてりゃ、遺伝子が狂って当たり前だしよ。お袋が死んで更日の家は断絶。従兄妹婚さえしなけりゃ、一軒ぐらいは残ってたかもしれねぇってのに…なに考えてたんだろうな」

 土方さんは末っ子で、お兄さんとお姉さんが三人ずついた。と言うことは、芙蓉さんはコラーゲン異常のある体で、七人もの子供を産んだことになる。

 無茶にも程がある、とは思うが、最後の無茶がこのひとだった。だから俺は―――――芙蓉さんには、どんなに感謝してもしきれない。もし彼女が自分の命を取ったのなら、このひとは居なかった。

 そう思ったから、言った。

「そうですか」

 今度は俺の言葉が多くなるだろう。

 マホガニーのチェストの上の時計が、ポーンと鳴って、午後七時を知らせた。

「二つの御結婚は、お見合いでは無かったのですよね」

「見合いの話は、聞いて無ぇな」

「と言うことは、土方さんのお母さんがお父さんを愛して、お祖父さんがお祖母さんを愛して、ひいおじいさんがひいおばあさんを愛した、と言うことで、だから土方さんが生まれたのですよね」

 土方さんの、俺の右側にずれていた視線が、くっと元に戻ってこちらを見つめた。くっきりとした焦げ茶の虹彩が、俺を見ている。

「今の時代なら兎も角、好きでもない人と結婚して、何となく夫婦になって子供を設けるよりも、ずっと純粋じゃないですか。危険だと分かっていて、でもどうしても止められなかったのでしょう?」

 土方さんの睫毛が二回、まばたきをする。

「俺……土方さんが、そういうところに生まれて良かった、と思いました、いま、あなたがあなたである理由が、分かった気がする」

 美貌と裏腹の、ぶっきらぼうな態度と言葉。なのに子供や動物に懐かれて、それを嫌がらないきみ。

 親が署に迎えに来るまで膝の上で眠る子供の髪の毛を、白い手でさらさら撫でていた。書類を読みながら、時折視線を落として子供の寝顔を見るあの視線の先に自分がいられたらと思ったら、一度封印した想いのなにもかもを、無かったことにすることは出来なくなった。

 言おう。言ってしまおう。

「土方さん」

 静かに、俺は深呼吸をした。右の肋骨が少し痛んだが、構わなかった。

「失礼やったら御免なさい。土方さんは、そういうご自分の体のこと、憎んではります?」

 土方さんが瞬間的に瞼を僅かに伏せた。その下で、両目が彼の右側に、ゆらり、震えた。

 当たりか……

 滑らかな肌を見つめながら、俺は病気が重かった頃の母の姿を思い出していた。寝たきりまではいかなかったが、もともと運動が好きで外交的な性格だった母は、誰もいないところで泣いていた、と家政婦さんが言っていた。自由が利かなくなった体が嫌だ、でも自分にはこれしか無い、と言っていたそうだ。

 何度か俺が、おかんは自分の体が嫌いか、と問うた時に、母はぎこちなく笑って首をゆっくり横に振ったが、その前に土方さんのように、瞼を軽く伏せて目を左右に反らしたのだ。瞳は嘘を、つけないから。

 母の心情は理解できた。が、その母が嫌いな体は、俺をこの世に生み出した体だったのだ。だから俺は、俺もな、おかんの体を好きやねん、と言い続けた。それは真実だったし、例え母の心には届かなくても、母がいる空間に、空気の酸素分子のひとつひとつに俺の気持ちを伝えたかった。酸素のなかに俺の気持ちが入りますようにと、願いながら。

 だから俺はこのひとにも、正直に話すことにした。このひとの部屋の空気のあらゆる分子のひとつひとつと、このひとから漂うサロニカの香りのすべてに、祈りを込めて。

「俺は、あなたの顔を好きになったわけじゃないです、あ、いや、その、…顔も好きですけど、そう言う意味じゃないです

 心に遺伝子はないでしょう

 俺は、あなたの心が好きです

 遺伝子では作れない、あなたの心が好きなんです

 でも、姿かたちも好きだから、あなたの遺伝子も好きやと思います。その遺伝子があってあなたがあるわけですから

 遺伝子ゆうのは不思議なもので、自分の先祖のひとりでも違(ちご)うてたら、いまの自分はおらへんのやそうです。土方さんにとって、体は相当辛いのでしょうけど、俺はあなたのご両親やご先祖がいはって、とても嬉しい

 あなたにとって俺は、ただの部下ですけど

 俺にとってあなたは、人生を変えたひとです

 あなたがいはったから、俺は東京にきました

 あなたと会わなかったら、今頃俺は大阪で、親父の会社で働いてました

 刑事にもなりませんでしたよ」

 彼が顔を上げて、俺を見つめた。くっきりとした二重瞼が綺麗な半月型に開いている。

 驚いたのだろう、こんなことは、今まで彼にも他の誰にも言わなかったから。見かけ以上に土方さんが神経質イコール繊細で、粗雑に見える態度の裏に、様々な思いを抱えながら行動する性格だと分かり、自分の感情などを軽々と話すべきではないと思っていたのだ。

 ましてこの日野署や日野市の人々は、良く言えば人情的、悪く言えば公私混同がやや強く、噂があっという間に伝播する傾向にある。俺の個人的な気持ちが、例えば鎌足さんのように良く喋る人物に伝わったら、瞬時に土方さんにも知られてしまう。俺は構わないが、恐らく彼は傷つくだろう、病気の母親から俺が離れたのは自分の所為だ、と責任を感じて。

 ―――――そういうひとだ。だから、

「どこかでご自分を、憎んではるんでしょう? せやさかい、そないな体で、強行犯係長までしてはるんやないですか?」

 強行犯係は、どの所轄でも、最も花形で最も激務だ。心身ともに疲弊するのが当たり前で、人相も悪くなる。繰り返される惨劇と人々の嘆きに、常に真正面から向き合わなければならない仕事は、最近は敬遠されることが多いが、このひとは決して弱音を吐かなかった。どんな困難があっても弱音を吐かない彼を見て、敬遠されがちだった刑事課を希望する若い署員が増え、昔は目立たない存在だった日野署が、都下だけでなく警視庁全体で名が知られるようになったのだ。

 痩せた体に、血の気の無い顔。親友の近藤署長に一言言えば、別の係や課に移れると言うのに、その気配が全く無かった。

 俺たち警察官には、いつでも殉職の可能性が付きまとう。まして強行犯係長は、一触即発の現場で真っ先に危険に飛び込む役割だ。つまりこのひとの目の前にあるのは―――――死。

『俺は何度も、七人目は産まないほうが良いって言ったンだよ』

 松本先生の言葉が鼓膜の奥にこびり付いている。

 知って、このひとは悲しんだろう。嘆いたろう。俺の母親がひとりで泣いていたのと同じく、誰にも知られないところで泣いたのかも知れない。

 その心を抱えたまま刑事になって、駒形由美と会ったのだ。志々雄を喪って心神喪失状態だった彼女は、土方さんと付き合うようになってから、銀座で輝いていたときのような生気を取り戻した。以前の彼女は、雰囲気がもっと暗くて、事情を知ればおいそれとは近寄れないような人間だったが、今では一般市民に馴染んで普通に笑っている。

 俺は、このひとが幸せなら、相手は誰でも構わなかった。胸はちくりと痛んだけれども、俺は女ではないし、このひとには相手を選ぶ自由がある。このひとが心から幸せを感じるなら、それが一番だと思うことにしていた。

 けれどもいまの彼は、違うように見える。

 生まれた時から両親の死を背負って、死が隣にある仕事を背負って、生死の間(はざま)を彷徨っていた女を背負って、死にゆく体を常に背負って、

 このままでは死と言うものに、喰われてしまう

 こうして俺と同じ時を刻んで、生きてはるのに



 初めて会ったのは、二十年近く前の晩い春

 若葉ひかるあの日を――――俺は忘れない



「あなたと会えて良かったと、俺、ずっと思っているんですよ。あなたが居なかったら、俺はここに居ない。俺をここに呼んだのは、土方さん、あなたです。あなたを追いかけて、ここに来たんです。そうしたら、愛で結ばれたひとたちの先にあなたが生まれたことが分かった。こんなに嬉しいことはありませんよ。自分の選択は正しかったと思います」

 俺にも、付き合っていた女がいた。おそらく、女の中では最も彼女を今でも好きだと思う。色が白くて、いつも明るく振る舞っていたが何となく影があって、気が付くと一人で静かに俯いていた。彼女といると、確かに気持ちがほっとした。しかし、このひとにはかなんなぁ、と思い、別れを告げた。男が男を想うなんてものは、自分には一生関わりないと思っていただけに、決めるまでには覚悟が要ったが、曖昧な感情で関わることは出来ないと思った。土方さんも彼女も、いつでも何にでも真剣だったからだ。俺も、真剣になろうと決めて、別れたのだ。

 誰かと一緒になって、自分の気持ちをほっとさせたかったわけでは無い。

 土方さんが見つめるのと同じ方向を見たくて、住んだこともなかった日野市に来た事を、思い出した。結局俺は、最初のところに戻って来たのだ。

 俺は、さっきからずっと黙っている土方さんの膝の間で、だらりと垂れた手を取った。白くて、柔らかくて、皮膚が薄い手は血が通って、温かかった。

 指の関節と関節の間を、痛みが生じないようにゆっくりと押す。異常なコラーゲンで作られたこの指で彼は竹刀を握り、銃を構え、犯人に突っ込んで行く。当時の松本先生の助言に耳を傾けずに、ふわふわ笑っていた芙蓉さんに、うりふたつだ。無茶苦茶な体で無茶をして、いつか、儚くなってしまう。

 母の診察の度に訪れた病院では、明日をも知れぬ命を抱えた沢山の病人が、群れを為してあがいていた。生きる為に。死なない為に。彼らの必死の形相と、絶望と希望が入り混じった顔を、今でも脳裏に鮮明に描くことが出来る。生きるとは、ああいうことだ。

 いまの土方さんには、ああいう生命力が欠落している。だから空気に融けそうで、カメラ小僧だった陽介の目には霞にみえたのだ。

(その薄い存在を、当の本人である土方さんが憎んではるなら)

 ソファから降りた俺は、座卓に座ったままの土方さんの前に跪き、しっかりと土方さんの両手を、自分の両手で包んだ。細くて長い指は、太くて頑丈な俺の掌に収まった。

 彼の、香りがする。サロニカの香りだ。あそこはきっと、

『俺たち兄弟が本来吸うべきだった厄介なモンを、一人で背負っちまってよ』

 このひとの為に作られたのだ―――――



「あなたが好きです

 あなたにとっては辛くて嫌な体かもしれへんけど

 俺にとってはあなたの心をこの世に繋ぎとめてくれはる大事な体です

 あなたが、ご自分を要らないとか嫌やとか思ってはるなら、

 俺にあなたをください」



「あなたをください」



 そう言って、どのくらいの時間が経っただろう。ほんの数秒足らずだったろうが、俺には永遠に思えた次の瞬間、

「ひ、じかた、さん?」



 俺はいま、世界でいちばん美しいものをみた。



 彼の瞳から、透明の滴がつーっと流れたのだ。

 焦げ茶の睫毛が濡れて、白い肌が濡れて、ぱたぱたと顎から零れ、彼のシャツに浸み込んでいく。

 それを見ながら、俺はさっきまで自分が言った言葉を思い出し、同時に彼を泣かせてしまった証拠を凝視して、急に慌てた。

「あ、あの、」

「…………」

 おまけに、土方さんがこちらの方向に体を傾け、倒れ込んで来たとあっては。

「……っ…!」

 痩せたとは言え、成人男性を背中にヒビの入った状態で斜め上から受け止めるのには、覚悟が要った。必死になって、受け止める。サロニカで塗って貰った精油の鎮痛作用が、効いてくれた。やっぱり痛かったけれども。

 土方さんは、俺の左肩に頭を伏せるようにして、体を凭れてきた。光を浴びて茶色に光る髪の毛が想像以上に細く、ふわりとしていて、俺の心臓が高鳴る。きっとこのひとに、聞こえたと思う。

 左頬に触れる彼の髪が柔らかい。妙につるりとして見えるのは、髪の毛のコラーゲンも異常だからなのだろう。が、俺にとって、この躯は異常なものではない。世界でいちばん、美しかった。

 顔を上げようとしない土方さんの髪の毛に隠れた彼の左耳に囁くようにもう一度、あなたが好きです、と呟いた。

「……おまえ、さ………」

「は、はい」

「俺の大学の、後輩だったよな」

「…そうですけど」

「―――ストーカーだろ、それ……」

「―――――あ」

「……現行犯逮捕する」

「…………逮捕、されました」

 俺の声に、土方さんは肩を震わせて笑った。俺の肩口に顔を埋めたまま笑って、俺のシャツが、また濡れた。

 香りを抱きしめるように、俺は彼を抱きしめた。

 いつか、この涙の訳を、訊かせてもらいたいと思った。





参考※ エーラス・ダンロス症候群

 数万人から数百万人に一人の確率で発生する、コラーゲン遺伝子異常やコラーゲン修復酵素遺伝子異常に基づく先天性疾患。
 常染色体優性または劣性遺伝。
 コラーゲンが脆いのが特徴。
 症状が非常に軽度の場合は、それとは知らずに日常生活を送っていることがある。その為、正確な発症率は不明。