Moumoku no Aki

 朝から胃の腑が頗る悪く、俺は少し嘔吐した。そのときどこかが切れでもしたのか、吐物に僅かの血が混じって白いシャツが胸の辺りで汚れてしまった。そんな自分の姿を鏡でみれば、

 ―――――眼窩の窪んだ俺がいた。




 溜息とともに秋が深まって、東京の空は青く高い。

 役が終結して一ヶ月。

 ―――――正直、

 まだ、夢でも見ているような気がしてならない。

 役に関して俺はずっと京都に居り、鹿児島どころか九州にも行かなかったから、毎日のように届けられる電報でしか、戦況を知ることは出来なかった。

 対照的に、斎藤は戦火を潜り抜けてきた。

 (東京に)帰ってきて初めてここに来たときの、暗い瞳が忘れられない。

 腕に傷を負っただけでなく心を深く抉られて、荒んだ表情をしていた。

 お前のそんな顔は初めてみた、と言うと

 俺はいつでもこんな面だと返ってきた。

 そのくらい言い返せれば平気だろう。俺が鼻で笑うと、あいつの疲れきった顔が少し和らいだ。

 だが彼の気配は終始強張ったままで、その日ついぞ破顔することは無かった。

 以来数日。表向き仕事は捗っている。

 現実は、かくも儚き夢であると綺麗事を唱える気持ちは更々無いが、理想と現実のあまりの差異に呆然として、精神に生じた空白を埋めるために一秒でも仕事しないではいられなかった。とかく政府には取り掛からねばならぬ急務が立て込んでおり、俺ひとりの都合でこの弱小の国を止めるわけにはいかないのだ。

 薩摩を出て二十年、積み重ねてきた積み石を崩すも積み続けるも俺次第だから、ここで気を抜くことは許されない。

 などと言いつつ、周囲の俺をみる目は脅えと恐怖に満ちて居り、寧ろ俺のほうが彼らを上手く励まさなければならなかった。彼らは俺の部下であり残された同志なのだから。

 だが彼らの瞼から、西郷が消えることはないのだろう、俺から彼が無くなることがないように。役が始まってから、否、その前より俺たちは“彼”の幻影を求め続けてきたのかも知れない。俺は薩摩にいた時から、彼らは“彼”をみた時から。そして当の西郷が死んで、俺たちは夢から覚めなければならないのだ。

 覚めないままでいられたら良かったというのは情感。

 今こそ目覚めるべきであるというのは理性。

 少なくとも俺は、明治政府責任者である者として後者を取らなければならない。西郷への思いの凡てを闇の彼方に追いやって。

 もしもそれが、容易く出来るものならば―――――




    私の聖母(サンタマリヤ)! とにかく私は血を吐いた……!




 目の下の隈が消えなくなって、眠りも浅いままで、それでも歩いていくしか無い。理不尽にも壊滅するほか道は無かった彼らのために、せめていま俺の出来ることをしなければ―――――

 もはやそれが供養であってもいいのだ。そうだな吉之助、

「………」

 たったひとり、俺を苦悩させた男。

 たったひとりなのだから、お前を葬り去ることが出来れば、叶わぬものは無くなるのだ。

 だからこのまま葬り去らなければならないと思う。

 そうして次は何処に行こう

 彼の居ない未来へ?




 足を踏み出すとくらりと頭が揺れて、はっとすると左脇が支えられ転ばずに済んだ。斎藤が俺を眉根を寄せてみつめている。

「余所見なんぞしてるからだ、阿呆」

「……」

「……………」

 斎藤の動く気配がなかったのをいぶかしむと、彼の視線は、俺のシャツに注がれているようだった。上体を前に倒したために、上着が合わせのところで左右に開いている。それを認めた斎藤の金の瞳が大きく見開かた。彼の角膜にはシャツの表面の、今朝の血を拭った染みが映る。

「な…!」

「平気だ」

「どこが…」

 呆れ顔で斎藤が俺の胸倉を掴んで、上着の釦を外すとシャツを表に出した。薄紅に染まったシャツを認めるなり、彼の白い肌から血の気が引いた。

「いつもの腫物だ」

「随分な腫物だな」

「どこへ行く」

「貴様など、黙って寝ていろ」

 行って斎藤は、俺の襟首を上から掴んで俺を廊下に引きずり出した。襟首を捕まえられ後ろ向きで引き摺られる内務卿など、俺が最初で最後だろう。廊下を歩く官吏らは、唖然とした様子で俺たちを見ていた。

 斎藤が俺を放り込んだのは、一角にある医務室であった。既に顔見知りとなった医者に斎藤が俺の胸元から出したシャツの染みを見せると、医者も慌てて俺を寝台へ上がらせる。

「大久保卿…!」

 彼に知れるとなれば、内務省のみならず政府人に広く知られてしまうかも知れない。そう察知した俺は慌てふためく彼を目で制止、他言無用を言いつけた。医者はがっくりと肩を落としつつ、俺の脈を取り始めた。俺は目を閉じて体を落ち着かせる。耳鳴りが酷い。

 次に目を開くと、既に斎藤はどこかへ消えていた。

「しばらくひとりにして欲しい」

 あらかた診察を終えた医者に頼むと静かに頷いて、部屋を後にした。

 それからしばらくの間、俺はまどろんだようだった。寝台に横になって布団を被っただけなのに、普段の疲労が一気に出たのかも知れない。

 重たい腕を目の上に上げて掌をみつめると、静脈が浮いて交差しているのがはっきりと見える。凝っと見ていると、手首の辺りで肌が規則正しく鼓動していた。

 ということは俺の心臓は動いていて、

 刻一刻と彼との距離は広がっているのだ、いまもなお。

「……っ」

 俺は胸を押さえて寝台から抜け出し、近くにあった布を口元にあてがった。

 気分が悪い。

 胃の腑に溜まったここ数年分の不快感がせりあがってきた。

「…ぅ…」

 酸味と悪臭と。

 嘔吐するということは、何故こんなにも辛いのか。

 奥底に秘めていた思いを己より他の世界に吐き出すだけなのに。

 或いは、己すら気付かないでいた思いを、目に見える形で確認するからかも知れぬ。そしてそれら思いの色形に、ぞっと背筋を震わせ認めざるを得ないのだ。

 己のあまりの醜さを




    私の聖母(サンタマリヤ)! とにかく私は血を吐いた……!
    それといふのも私が素直でなかつたからであるが、
    それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
    私がおまへを愛することがごく自然であつたので、
    おまへも私を愛してゐたのだが……




 ひとは

 天がその存在を許す限り、生存するものであり

 許さずとなれば天命を以ってその命を絶たれる

 本来それは、喜びでもなければ悲しみでもなく

 ただそうだと受け入れるほかは残されていない

 ならば吉之助  お前は受け入れたことになる

 終焉という名の天命を

 きっとお前のことだから

 抗うも嘆きもせぬままに

 ハイソウデスカと容れたのだろうよ




 日に日に衰えを増していく精神がいつまで持つのか、正直なところ俺には分からない。政治に携わって以来、焦らすのも焦らされるのも随分経験してきたものだが、最早俺に頼れるのは俺ひとりになったことが判ってしまった以上、崩壊していく自我を政に無関係のところで俺自身の手を以って食い止めなければならなかった。

 分離していく心。

 一方は無駄な情が削ぎ取られて澄んでいき、他方は枯れ果てるのか。ふたつのうち、真実俺はどちらに居るのだろう。そして俺は、どちらで在りたいのだろう。

 目を閉じれば彼の姿がありありと浮かび上がり、懐かしくて俺は悲しいのか、せめて彼が記憶のなかに生きているのが嬉しいのか分からなくなる。




    もう永遠に帰らないことを思つて

    酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう……

    私の青春はもはや堅い血管となり、

    その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

    それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)え

    去りゆく人が最後にくれる笑(えま)ひのやうに、

    厳かで、ゆたかで、それでゐて侘しく

    異様で、温かで、きらめいて胸に残る……

    あゝ、胸に残る……




 顔を洗い口を注いでいたら急に空気が変わって顔を上げると、斎藤がこちらを見ていた。微かに細められた金の瞳が、闇の中で煌く。

 反射的に、俺は腕を伸ばしていた。

「ん…」

 細身を寝台に押し付け、覆い被さるように口付ける。

 口腔を舐め、舌を絡め取る。斎藤に俺の血が渡った。

 血の味に動揺を隠せない斎藤が俺の服を再び掴もうと伸ばしてきた手を捕まえ、そして斎藤に縋り付きたくなる躯を抑えて彼の手を引っ張り、逆に彼を胸に抱きとめた。

 俺には、まだこいつがいるのだと。

 西郷とは違う、不滅の魂が。

 心臓がどくりと呻いた気がした。

「……」

 見下ろすと、胸のなかの斎藤が蠢いている。

「…離せ」

「何故?」

「……あのな」

「これで先ほどと相子だろう?」

 俺が口元だけで笑うと、斎藤は小さく舌を打ち鳴らしたが、後は黙って俺にされるが侭になっていた。

 吐血した後の所為か、何度も頭がぼやけそうになった。気を失いそうで、それが不思議と快感だった。まるであいつといたときの淡い夢のようで―――――

 西郷は外観こそ目立っていたが決して、ぎらつく男では無かった。ぎらりとは正反対の、穏やかな光明を醸し出していた。

 錐(きり)のような鋭さは、寧ろ俺の方がよく言われていた。お陰で随分敵も作ったが。

 斎藤も俺と共通するところがあるかも知れない。ならば、容易いのだ。

 錐同士なら、焦点さえずらしてしまえば、貪る事があろうと斎藤がこれ以上傷つくこともあるまい。

 肌一枚を掠めるだけの関係に甘んじる。

 如何にも、半身を失った俺らしいではないか。心も体も分裂したまま、醜く生きる。

 または、もう俺には、それしか許されないのだ。




    おゝ! 私の聖母(サンタマリヤ)!
    いまさらどうしやうもないことではあるが、
    せめてこれだけ知るがいい―――――


    ごく自然に、だが自然に愛せるといふことは、
    そんなにたびたびあることでなく、
    そしてこのことを知ることが、さう誰にも許されてはゐないのだ。




 ハイソウデスカと容れたのだろう 愛することも死ぬことも

 お前のことだ、死さえ愛したのかも知れぬ

 俺は政治家という定(さだめ)を容れて

 いま少し、この胸の存在と足掻いていたいと思う

 あと二十年、否、十年そこらで構わないのだ

 天がこの身を飽きるまで



(中原中也「盲目の秋」より抜粋)