レモンムース


「ムカつく」

 俺はベッドの上に寝転がりながら、無機質な天井に向かって吐いた。

「ムカつくムカつく」

 ばたばた足を動かして埃を舞い上げながら、俺は叫ぶ。

「ムカつくーーーっ!!」

 そんな俺をみても、俺の部屋を掃除している家政婦のトキさんは相変わらずにこにこしていた。

「まぁ坊ちゃん。いったい何がお気に召しませんか?」

 話しかけられて俺は天井からくるくるとよく動くトキさんの白いエプロンドレスに視線を移して言った。

「そんな福福しい顔で言われても答えようがないんだけどさ」

「まぁ嫌ですよぅ。坊ちゃんのほうがずっと幸せの来るお顔をなさってますよぅ」

「え〜なんだよそれ」

「トキは坊ちゃんがお生まれなさる前ときからずっとこちらのお屋敷でお世話させていただいていますがね、坊ちゃんのように凛々しいお顔の方をおみかけしたことはございません」

「ふ〜〜ん」

「ふ〜んて坊ちゃん、トキは嘘を申し上げませんのに」

 まったくもう、とトキさんは笑って、部屋のクローゼットを開けて、今日届いた制服を数えだした。

「ひぃふぅみぃ…ちゃんと全部ございますね。ああ、坊ちゃんもついに高校生……お生まれなさったときはトキの両手ぐらいだった坊ちゃんが、いまではこんなに大きくなられるなんて…トキは嬉しゅうございます」

「だー、もー、赤ん坊の頃のハナシなんてするなって。俺覚えてないんだからさ」

「坊ちゃんのベビー服は黄色いのがほとんどでございました。ご親戚のみなさまから、男の子でも女の子でも着られるようにと黄色いベビー服を沢山いただいたんです。トキはお洗濯をするのが楽しくて。でも来月からは長州高校のシャツをお洗濯できるんですね。マキ子さんに取られないように、張り切ってお洗濯しなければ、ですね」

 マキ子さんてのは、トキさんの次に住み込み歴の長い家政婦さんで、トキさんと違って小柄でほっそりしている。トキさんは七福神の大黒様のように福々しくてたまらない。うちの家政婦さんはみんな明るくていいひとばっかだけど、トキさんが俺のこと一番可愛がってくれてるかな。

「では坊ちゃん、もう少ししたら御三時(おやつ)でしょうから、降りてきてくださいましね」

 そう言ってトキさんは部屋を出て行った。今日は朝からお袋がケーキ作りに張り切っていたのだ。

 俺のお袋は所謂お嬢だけど、料理が好きなお嬢で、東京の料理教室とか菓子教室で勉強して腕をみがいたらしく、手作りするのが好きだった。おかげで俺も二人の姉貴も味にはうるさい。

「今日はなんだっけ……アップルパイ。そう、アップルパイだ」

 お袋のアップルパイは好きだ。いい砂糖を使ってるから林檎の自然な味も生きている。どうも俺は菓子屋で売られている白糖の味のするアップルパイは嫌いだった。

 昨日はイチゴのシュークリームだった。その前はさつまいもの天板ケーキ。菓子作りが趣味のお袋をもって俺は幸せだぁぁぁ。

「…レモンムースは苦手なんだけどな」

 最初の頃はちゃんと甘かったのに、酸っぱいもの好きの親父のリクエストでだんだん酸っぱくなってきたのだ。俺は酸っぱい顔をするけど、お袋は酸っぱくて嬉しそうな顔をする親父をみるのが好きらしく、この前のレモンムースもやっぱり酸っぱかった。

「まいっか」

 俺はベッドの上で起き上がって、部屋をみまわした。

 張り替えられて綺麗になったアイボリーの壁紙と、ナチュラルブラウンの大きな本棚。のガラスケースに収められている高校一年の教科書ズラリは、みるだけでイライラする。

「…ムカつくぜ、ったく」

 俺はもう一度毒づいて、両足を布団に叩きつけるようにしてベッドに横になった。





 下関の高杉家と言えば泣く子も黙る旧家+資産家で、どういうわけか俺はそこん家(ち)の長男に生まれてしまった。俺が生まれるずっと前からあるというこの屋敷の二階からは、九州と四国がみえる。

 瀬戸内の海は好きだ。親父の親友がもっているクルーザーで瀬戸内海を走るのが俺の夏休みのイベントで、親っさんに指導されて俺は釣が上手くなった。

 九州のほうは知らない。昔福岡に行ったことがあるぐらいで、他は想像もつかないし、あんま興味もない。

 俺は下関で生まれ、下関で育った。昔はいろいろあったらしいけど、下関市民としても山口県民としても、俺は誇りをもっている。だから他の県や地域には遊び以外の興味をもったことがなかった。

「それは勿体無いですね」

 と、家庭教師の吉田先生に窘められる。

「高杉君、日本は狭いようでいて広いのです。地域によって文化が違います。故郷を大事にするのは結構ですが、故郷を大事にすることと、他の地域に興味を抱かないこととは違いますよ」

 そんなニコニコ顔で窘められたって、この俺が聞くわけないじゃん。

 なんて思いながら先生からチェックされた問題を仕上げていく。そんな俺を、先生はニコニコしながらみつめてくる。

 ガキの頃から、俺は体が弱かった。大病というわけではなく、ちょっと風が冷たくなったら風邪をひくとか、首が痛いのを我慢してたら大熱が出るとか。そんなレベルだったが、両親は俺をだだっ広い屋敷に閉じ込めた。

『晋ちゃんはお外で遊んじゃいけません』

 が、お袋の十八番だった。遊びたい盛りの子供なのに、俺はいっつもひとりだった。というのは言い過ぎで、正確には二人の姉貴に遊ばれていた。もう姉貴が着なくなった服(女物)とか散々着せられていた。男では絶対着ないであろうフリルのスカート、真黄色のワンピース、黄色いリボンで髪の毛を結ばれるなんてしょっちゅうだった。

 でも中学に上がってからは俺のほうが体格的にがっちりしてきたため、姉貴の着替えごっこはそこで終了して、俺は普通の服を着られるようになった。だが華やかなカラーに慣れてしまった視覚が、俺の服のセンスを悩ませた。どうも、グレーとかダークブラウンでは我慢できないのだ。もちょっと明るく、もちょっと色のついた服…と探すうちに、帰るところへ帰ってしまった観があり、俺のタンスやクローゼットは黄色の服で溢れている。

 だから勉強するときも黄色いトレーナー。黄色い靴下に、黄色いマグカップ。

「できたっ」

 俺がかじりついていたペーパーから顔をあげるなり、先生が覗き込んでくる。

「どれどれ。…大正解です!」

「へへっ」

 俺は黄色いマグカップを手にして、ホットミルク(冷めてるけど)をこくりと飲んだ。

 先生はトキさんが運んできたカフェオレを半分残したまま(きっとあれも冷めてるさ)、赤ペンで俺の答案用紙に大きく花丸を書いた。

 吉田松陰先生は、どんな生徒にも花丸をくれる変わった先生だ。山口県の家庭教師連盟に所属しているけれど、その実は個人で生徒を受け持っていて、山口県内ならどこにでも言って生徒を指導してくれる。

 その指導が面白いのだ。生徒がテストでどんなに悪い成績をとっても花丸をくれる。きゅきゅきゅっと赤ペンで花丸を書いて、学校の先生につけられた点数に二重線を引っ張って消して、百点と書く。

「高杉君は頑張って問題を解いたのでしょう?君の努力は百点満点なんです。だから私は百点を書きます。解けなかった問題は解けるようになればいいのです」

 そのひとことを聞いて俺は、この先生は違うなと思った。俺は前述のように家に閉じ込められていたから、小学六年のときから家庭教師をつけていたけど、いまいちだったのだ。でも吉田先生のことは一発で好きになった。

 だから勉強した。先生はどんな点数をとっても花丸をくれたけど、先生をびっくりさせる点数をとってやろうと思うようになったから、学校の成績も上がっていった。上がって上がって、学年十番以内をキープするようにになった。

「なぁ先生、高校生になったら、どんな勉強するんだ?」

「そうですねぇ、いま高杉君としている勉強よりも、より高度で複雑な勉強をします」

「高度で複雑かー…想像つかないな」

 俺がうーんと伸びをしたら、先生は言ったのだ。

「じゃぁ、やってみましょうか」

「え?」

「高校一年の勉強ですよ」

「えーっ、だって俺中(学)三…」

「本来、勉強に学年は関係ありませんよ。高杉君ならできると思いますけど」

「……」

 いま思えば、俺は完全に乗せられたのだ。吉田先生はその日のうちに俺の両親に熱弁した。「晋作君はいまや学年で三番です。このままいけば長州高校合格は間違いありません!せっかくですから高校一年生の勉強も平行して行うというのはいかがでしょうか!晋作君なら絶対できると私は確信しています!!」

 と、いうわけで、俺は中学三年の初夏から高校一年の勉強も平行して行うようになり、中学卒業の頃には高校二年の内容に入っていた。買ったばかりの高校一年の教科書を開いても分かりきっている内容で、だから

「ムカつく」

 のだ。

 山口県随一の進学校・長州高校。部活動も生徒会活動もそっちのけで、生徒はみんな大学受験で頭がいっぱい。きりきりがりがりした連中が溢れてる。

 なぜそんな進学塾と同じようなところに俺が行くかというと、そういうところに乗り込んで、高校色を変えてやろうと思ったからさ。

「賛成!!」

 吉田栄太郎が大げさに手を上げて発言した。

「たとえ進学校であろうとも、部活も生徒会も常に活発であるべきだ!学歴偏重のいまの教育は間違っているー!!!」

「いいぞ栄太〜もっとやれ〜」

 拍手し栄太郎を扇動するのは入江九一で、

「う〜ん、僕としてはそこに課外活動を追加したいなぁ。体を使ってボランティア。禿山に木を植えましょう」

 兄貴面するのは久坂玄瑞だ。

「な〜んて言いながら枯れ木を焼いたりしないでしょうね?!久坂さんてば火とか炎とかみると人が変わるんだからもう」

 突っ込み役の伊藤俊輔は口がうるさく――――

「その点、高杉さんは枯れ木じゃなくて枯れ葉集めて焼き芋焼くんスよね。ねっねっ師匠」

 などと言うものだから俺に蹴られる。

「いつから俺がお前の師匠になったんだ?お前みたいなアホ、俺は要らんわ」

「アホってそんなぁ、ひどいですよ師匠〜〜」

「高杉さん記録更新。たったいま、800回の大台に乗りました」

「あー?!なんのことだよ聞多」

 俺の問いに、井上聞多はいつも携帯している「もんたのひみつノート」をぺらりとめくって答えた。

「高杉さんが伊藤にアホって言った回数」

 途端に久坂が呆れ顔を俺に向けてきた。

「聞多、そんなものまで数えてたのか。趣味というより習慣だな。いずれにしろ高杉は言いすぎだな。いくら相手が俊輔とはいえ」

「あっ、あのですねー久坂さん、それって俺を守ってんですか、非難してるんですか」

 おずおず聞いてきた伊藤に久坂はヤツの得意とする確信犯的笑顔で言うのだ。

「両方」

「うえーっ、久坂さんてば優しい顔して酷いよぉ〜」

 伊藤は(ウソ)泣きをして、テーブルに突っ伏した。それを慰める聞多あり、昨今の政治を批判しだす入江あり玄瑞ありのこのテーブルに近づく客はほとんどない。

 俺はぼーっと海を見ている。瀬戸内海に面したところにあるこのホテルのロビーで集まるのが、俺たちの習慣だった。

 同学年の久坂と入江と栄太郎、年下の伊藤と聞多、と俺はみんな、吉田松陰先生から習っている。それぞれ通っていた(伊藤と聞多は現役中学生だが)中学は違うが、吉田先生を通じて近づいた。結構前から名前は知っていたけれど、こんなふうにぽんぽん言葉を出し合う関係になったのは、吉田先生のお陰だった。

 俺と久坂、入江、栄太郎の四人は来月から長州高校に通うことになっている。こいつらがいればガリ勉一辺倒の長州高校が変わるんじゃないかと思って発言したら、どうやらあたったらしい。

 どーせムカつく高校生活、暴れたっていいだろ。

 そう思いながら、俺は運ばれてきたクリームソーダのアイスを食べた。

「お〜冷て。あ、そういえば」

 俺がスプーンを止めると、向かいの席でイチゴパフェを食べていた栄太郎がちらりと俺をみた。

「なんだよ」

 まるでこちらを検問でもするような意地の悪い栄太郎の視線を睨み返そうとしてやめ、代わりにパフェに刺さるポッキーを引っこ抜いて食べた。

「俺のポッキーがぁぁ」

「たーかーすーぎっ!」

「俺の目の前でパフェ喰う栄太が悪い。俺は、悪くない」

 俺が憮然と言ったすきに、となりで聞多のチェックが入る。

「高杉さんのジャイアニズム(お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの)、通算286回です」

「300越えたらお祝いしような高杉の奢りで。それまで聞多、しっかり頼むぞ」

「まかしといてくださいよ〜〜あいたっ☆」

 調子に乗る聞多を俺はゲンコツで殴った。

「ンなもん数えるな!それになんで俺が奢らなきゃならないんだよ!言いだしっぺの久坂がやればいいだろ!」

 激昂する俺に対し、久坂はテーブルに肘をついてふふんといった顔で俺をみてくる。

「僕は無駄なお金は使いたくないんだ。ありあまるほどのお金のある誰かさんと違ってね」

「あー……そりゃそーですよねぇ」

 久坂のセリフに、いつのまにか立ち直っていた伊藤が付け加えた。

「誰かさんは超金持ちの長男坊ですからね」

「そうそう。所詮次男の僕と比べると、世界がまるで違うわけ」

「ビルでしょ〜、アパートでしょ〜、マンションに貸家。賃貸料金だけで暮らしていける誰かさんの御財布と一般民を比べないでほしーってゆうか」

「別荘は旧軽井沢」

「グァムにハワイ」

「(ラス)ベガスで儲けたあとは、ニューヨークでおっ買い物〜」

「……お前ら、なにが言いたい」

「いいな〜〜〜〜〜」(×5)

 周りの十の目が昔の少女漫画のヒロインのように、一斉にキラキラ輝いた。

「あのなぁ!!」

 俺はバン!とテーブルを叩いて(店のものだけど)、キラキラ野郎を我に返らせようとした。

「金ってのはな、ちょうど良くあればそれでいいんだ。使いきれないほどの金なんて、迷惑なだけだ」

 なんてことなしに言ったセリフだったが、某銀行の総裁の息子してる聞多が声を荒げてしまう。

「みなさん聞きました?使い切れないほどの金!一度でいいから言ってみたいっていうか、手にしてみたい!」

「あ〜あ、いいよな天性の坊ちゃんは。うちの病院も経営危なくてさぁ」

 久坂は下関の中心に建つドでかい私立病院の院長の次男だ。兄貴はいま医学部に行っている。

「赤字の病院なんてシャレにならないよ。ったく、経営能力のない人間が経営するなんざ馬鹿丸出しもいいとこ」

「それって親父さんのことか?」

「そーだよ」

 珍しく、久坂が姿勢を崩して背中を丸め、テーブルに直接顎をつけて文句を垂れた。

「冗談じゃなくてほんとヤバいんだ。だから俺、医学部じゃなくて経済学部行こうと思ってさ」

「え〜〜〜。将来俺、久坂にタダで診てもらおうと思ってたのに〜〜」

「栄太の診断なら俺でもつくよ。間違いなく潰瘍。高杉の相手をすることにより発生したストレス性十二指腸潰瘍でしょう」

「…っ!!!!!」

 俺は久坂の足と栄太郎の足を力いっぱい踏みつけてやった。ぎゃー。声にならない叫びが上がる。それを傍目でみていた入江はかなり呆れた顔をしていたが、「あれ」と言って真顔で俺をみた。

「なぁ高杉。お前、なんか話があったんじゃなかったか?そういえばって言ってたと思ったけど…」

「おー、そうだった」

 ポン、と手を打って俺は、まだもんどりうっている久坂と栄太郎を除いた三人に話し出した。



*               *




 それは昨日のこと。教科書をぺらぺらめくったところでムカつくだけで本気でつまらなくて、温かい春の陽を浴びながら部屋でごろごろしていたときのことだった。

「坊ちゃん、旦那様がお呼びですよ」

 とトキさんに言われて階段を降りながらもう三時なのかと思ったが、俺が案内されたのは客間だった。なんだろう?そう思って重たいドアを開けた。

 ら。

「はじめまして」

 にっこり微笑まれ、俺は目をぱちくりしてしまったのだ。

 …天使の降臨…?!

 なんて感じていた俺のトレーナーを引っ張って前に出し、親父は“彼”に俺を紹介した。

「こんな格好をしていますが(トレーナーはもちろん黄色)これが長男の晋作です。不肖の息子ですが、今後ともよろしくお願いいたします。…晋作、ご挨拶なさい」

 普段とろけている顔の親父が珍しく真面目になっていたので、一応、俺も挨拶した。

「高杉…晋作です…」

 そう言うと彼はふわりと穏やかな声で「木戸孝允です」と答えた。

 ああ、こいつか……

 木戸の家は下関にトップを置く大企業の本家だ。分家を入れるときりがないぐらい裾野を広げた一大グループの総帥の家と、高杉の家は古くから交友があった。木戸の家に最近、新しい人間が入ったって聞いてたけど、それがこいつなんだと俺は思った。

 親父が「孝允君とお前とは同い年で、孝允君も長州高校に通われるのだそうだ。仲良くしていただきなさい」と付け加えたので、俺は素直に頭を下げた。

「よ、よろしく…」

「こちらこそよろしく…」

 ふふ、と彼は微笑んだ。

 そのあと、彼を連れて来た木戸家の総帥とうちの親父が話し出したので、俺は彼とふたりになった。親父は彼にこの家を案内するように、と言ったが、家案内しても仕方がないと思ったので、思い切って下関の町を案内することにした。俺が提案するなり親父は顔を青褪めさせたが、彼が「是非お願いしたいです」と言ってくれたので、そのままふたりで市内観光することになった。

 トキさんの「お気をつけていってらっしゃいませ」の声に送られながら、俺たちは屋敷を出た。門を出てすぐに、俺は言った。

「あのさ、」

 彼はくりんとした目で俺をみてきた。睫毛が軽くカールしている。

「…あのさ、俺、堅苦しいの苦手なんだ。初対面で馴れ馴れしいやつって思うかもしれないけど、それが俺だから勘弁してくれよな」

 俺の言葉に彼はくすっと笑って

「もちろん。私もそっちのほうがありがたいよ」

 と答えた。俺の肩の荷が一気に下りた。

「あー助かった。じゃぁさー、どこ行きたい?」

 てっきり、「初めてだからどこでも行ってみたい」とか言われるだろうと思っていたのに、彼の望みは漢字一文字だったのだ。

「海」

「はぁぁ?」

 俺が再び目を丸くすると、彼は妙に綺麗な顔の、これまた綺麗な瞳を煌かせて続けた。

「瀬戸内海をみてみたいんだ」

「みたことねぇの?」

 俺が覗き込むと、またあの宝石みたいな目に射抜かれる。

 あー、この顔、苦手かも。人形みたいでさ。

 乱れまくりのこっちの気も知らずに当人は笑うのだった。

「うん。瀬戸内の海は遠くから眺めたことしかないんだよ」

「へぇ…、海でよければいいところがあるんだ、行こうぜ!」

 俺たちは駆け出した。瀬戸内の、明るい光に向かって。

 四十分後。

「………」

 彼は恍惚とした様子で、瀬戸内の海をみていた。やわらかそうな髪の毛を、夕凪に任せて。

 瀬戸内のトワイライトタイム。俺がいちばん好きな時間。夕陽を反射させた波が細かく揺れて、敷き詰められたダイヤモンドのように輝いている。

 俺もしばらく眺めていたが、後ろから声がかかってきたので振り返ると、海の男の笑顔があった。

「気に入ってもらえたみたいだなぁ晋作くん」

 ジーンズのポケットに手を突っ込んで、親っさんに近づく。家を出るときに玄関でひっかけてきたパーカーが風を孕んで膨らんだ。

「サンキュー親っさん。でも親父には内緒にしてくれよな」

「あったりまえだぃ!坊ちゃん方を無断で乗せたなんてことが知れたら、大目玉を喰らっちまうよ」

 俺は彼を連れて親父の親友が経営する旅館に行き、そこの親っさんに話をつけて自慢のクルーザーを出してもらったのだ。海に行きたいと言ったから、みるだけじゃなくて、海を走るのも楽しいんじゃないかと思って。

「釣したいって言われるかと思ってヒヤヒヤしてたよ」

「釣はさ、今度。あいつが俺みたいな格好してきたときな」

 親っさんはわっはは、と大口を開けて笑った。俺がトレーナーにジーンズの軽装しているのに比べ、彼はきっちりスーツを着込んでいるから。でも、スーツと言っても親父たちが着るような中途半端な暗い色じゃなくて、深い紺色のジャケットと透けそうな薄いシャツ+白いパンツだから、着込んでいるけどどこかやわらかい印象があった。

「なぁ坊ちゃん。あそこの坊ちゃんは……男だよなぁ」

 親っさんのいきなりな質問に、俺は面食らう。

「あたりまえだろー?!ちゃんと喉仏あるじゃん。男だよ。うそっぽいけど」

 俺が言うと親っさんは噴出した。

「うっ、うそっぽいって坊ちゃん、あまり笑わせないでくれよ。船が転覆しちまう」

「お〜それは大変だ。俺、もうあっち行こ」

 俺はとっとっと、とスニーカーの音を軽く立てながら、彼のいるクルーザーの先頭に戻った。

 俺が後ろにつくと、彼は振り返った。

「……ありがとう」

 礼されるなんて考えても見なかったから、俺はやや驚いて両手を振る。白い顔が瞼に目映い。

「いや、礼をされるほどのことじゃ…俺が船出してるわけじゃないしさ、」

「…私は不安だったんだ」

 おどける俺と対照的な声が、彼から聞こえた。

「え…」

「…うん」

 そういうと彼は、それまでずっと前の方向を向いていた体を俺のいる方向に向けて、言ってきた。

「実はね、木戸の屋敷に着いて三日経ったんだけど、あまりの大きさにショックを受けていたんだ。屋敷だけであんなに広いのに、これより広い世界で生きていけるのかって。私個人の部屋だけで三十畳はあるんだ」

「…ひ、広すぎるよなぁ。俺も木戸屋敷に行ったことあるんだけどさ、迷子になったもん」

 なんとか会話を繋げようと思って吐き出した俺のセリフに彼は目を丸め、ぷっと噴出した。

「マジだぜ、すっげー怖かったんだから!」

 慌ててフォローしたが、両手を使ってのパフォーマンスに彼の笑いはますます拡大していった。広い広い屋敷をひとりで冒険していて迷ってしまい、疲れた挙句適当に開けた扉が総帥の寝室で、総帥のベッドで寝ているところを発見された、と言ったのが更に拍車をかけたらしかった。でもさっきまでのシリアスな表情から笑顔になってくれて良かったと思った。

 横から見るとよくわかる、長い睫毛に海面で反射した光が灯って、彼の眼をさらに彩ってる。笑うと可愛いじゃん、て、思った。

 彼はひととおり笑うと、だんだん微笑みになって、また俺をみた。いま俺たちの体を撫でている風のように暖かい空気が彼の体から放出されているようで、なんか、苦しかった。

「不安で不安でたまらなかったんだ。私は神経質でね、気が小さいんだろうなぁ、海とか空とかあまり得意じゃないんだ。手を伸ばしても、いつまでも届かない気がして…」

 その気持ちはなんとなく分かる。空も海も果てがないし、寿命もないから。どこから始まってどこで終わるのかなんて、分からないから。

「それがまるで私の未来なんじゃないか…てね」

「……真面目なんだ」

 俺は自分の未来なんて考えたこと無い。考えたとしても、シリアスになったことは一度も無い。でもこいつは見た目からして生真面目なんだろう。適当にやり過ごすってことができそうにない人種のようだった。

「私は堅いだけだよ。だけど…」

「だけど?」

 彼はふふ、と笑った。俺の大好きな、この海のように。

「思い切って苦手なはずの海をみたら、なんだか安心した。海の広さに比べればあの家も大したことないんだって、海が教えてくれた気がする。上で波風が立っても、深海のほうは穏やかなんだよね…」

「あ…それ、俺も聞いたことがある。親っさんがさ、言ってたんだ。どんなに海が荒れてても、それは波だけの話で、海底を撫でてる海流はすごくゆったりしてるんだって」

「うん。そのことを考えながら波をみてたんだ。それに、荒いだけじゃなくてこんなに気持ちいい波もあるって分かったよ。そうしたら気持ちが楽になった。君にここに連れてきてもらって良かったと思った。だから礼を言いたかったんだ。ありがとう、晋作君」

 にっこり微笑んだ彼の顔が眩しくて応えるのを忘れそうになったが、名前を呼ばれたことに気がついて俺ははっと我に返った。そして手をふって思いっきり否定する。

「ダメ!ダメダメ!!今のナシ!」

「え……?!」

「俺は晋作君なんてガラじゃない。晋作。晋作って呼んで」

「…あ、そう…?じゃぁ、えと、…晋作」

「合かーく。じゃ、俺はぁ、」

 俺はちょっと考えた。彼の名は孝允、だったよな。でもなー、なんか堅いんだよ。せっかく呼び合うんだから、もちょっとこう、イージーに呼べないかなぁ。

「…あのさ」

 俺は聞いてみた。

「改名する前の名前、なんてゆーの?」

「え…?」

 彼はきょとんと大きな眼を開いて俺をみた。クルーザーも海風も走っているから髪の毛がぶんと靡くはずなのに、彼のところだけ空気が止まっているような感じがした。

 ふわふわして、菓子みたいなやつだ。なのに木戸の家に養子に入るぐらい、凄いやつなんだよなぁ。

「なぁ、名前は?」

 俺は真面目な顔をして問い詰めた。彼はさらりと答えた。

「小五郎」

「へ?」

「小さい五郎で、小五郎」

「おー、大五郎の逆な」

 俺はマジで言ったのに、彼はまた噴出した。



*               *




「……て、わけでさ」

 そうして俺の意識はホテル・サンライズの一階ロビーに戻った。クリームソーダの食べかけのアイスをソーダのなかでぐるぐるかき回して、俺は続ける。

「そいつと俺は名前で呼び合うようになったわけだ。長州高校に通うっていってたから、お前らとも会うぜたぶん。えーっとな、名前は木戸孝允。元の苗字は桂。桂小五郎だった気がする」

「………」

 なにがしかの反応があるはずなのに、反応がない。みんな呆然と俺をみ…いや、睨んでいる。正確には、かなり憎憎しいといった表情で俺を睨んでくる。

「…なんだよ。俺がなんか言ったかよ」

「…か、か、か、」

 入江が反応した。痙攣とか起こしたときのように顎を開いたため、八重歯が唇から覗く。

 そのまま入江はすぅと息を吸い、なにか言いながら吐き出そうとして、横からぬっと伸びてきた栄太郎の掌に遮られ、わぷっとか言って入江はばたばた暴れた。くたばれ九一、とぼやいてから俺はテーブルに頬杖をついて言った。

「女みてーな顔してたけど、体は結構鍛えてると、俺様は思ったわけだ。だから体育祭とかで使えないかなーと、」

「…高杉!!!!!」(×4)

 突然、俺は入江を除く四人に目の前で叫ばれた。わけが分からなくて、負けじと叫び返す。

「るせーな、なんだよさっきから!ひとを親の仇みたいにみやがって、俺はなぁ、」

「黙れ高杉シャラーップ!!!何様のつもりか貴様は!」

「ああん?!」

 久坂の掌を口から剥ぎ取った入江が俺の真正面にぐいっと顔を寄せてきた。

「お前、あのひとをなんだと思ってんだよ?!俺は正直、ここまでお前が馬鹿だとは思ってなかったね」

「は?!」

「は?!じゃないだろ!!もう高杉なんて知らん!!久坂なんとかしてっ」

「はいはい、じゃぁリクエストにお答えして僕がお答えしましょう。高杉は最初からバカです。僕なんて初めて会話したときから心のなかでバカ杉って呼んでたけど、これからはマジでそう呼ぶのでよろしく」

「俺もー」

「やーいバカ杉。やーいやーい、あいたっ☆」

 バカバカ呼ばれて、俺は再び栄太郎の足を踏んづけた。だが栄太郎はさっきと違って、ものすごい眼で俺を睨んだだけでなく、俺の脚を蹴ってきた。

「栄太っ、このっ」

 こっちも蹴り返してやろうと思ったが、はたして栄太郎はすばしっこくて俺の足攻撃を交わしながらうまい具合に口のほうでも攻撃してくる。

「怒りたいのはこっちのほうだ!!いや俺は怒ってる!桂さんはなぁっ、お前ごときが触れていいもんじゃないんだ!!」

 勢いよく捲くし立てられてムカついたので、俺はぶすっと答えた。

「なーんでお前があいつのこと言えるんだよ。それにあいつ、俺が何を言ってもにっこにっこしてたぜ。いいじゃんよ別に」

「………」

 俺がぶすっとした顔でそう言うと、栄太郎は捲くし立てるのをやめ、いきなり両手で顔を覆ってウソじゃなくて泣き出した。

「これだから!坊ちゃんってこれだから!!」

「坊ちゃん言うな。俺が坊ちゃんなら、お前だって坊ちゃんだろーが」

 俺はホワイトグリーンになったソーダをかきまわしたストローの先を栄太郎の鼻先に突きつける。栄太はますます喚くのだった。

「俺ん家(ち)は成金だ!世間知らずの坊ちゃんと一緒くたにすんな!ていうか入江ぇ。あのひとに俺、こんなののダチって思われるのヤだよ〜〜〜〜」

 話を向けられた入江はあと半分を残したチョコレートケーキに突き刺したフォークを大げさにカランと皿の上に手放し、栄太郎の頭を撫でてやる。

「栄太、耐えろ。バカ杉と切れれば、七重さんのチーズケーキにありつけなくなる」

 七重さんてのは俺のお袋のことで、栄太郎はお袋のチーズケーキ目当てでウチに来るようなものだった。中途半端な慰められ方をされて、栄太郎の涙は溢れるばかりだ。栄太郎は「ケーキ、七重さんのケェキィィ」と泣きながら、テーブルに突っ伏した。それを横目でみていた入江まで俺を涙目でみるなりわっと泣き出したものだから、俺ももう手を出したくない。

「なんなんだよいったい…」

「…あのですねー、高杉さん」

「あー?」

 現実屋のくせに窓の外に視線をずらし、非現実を求め始めた久坂は放っておいて、俺は声をかけてきた伊藤のほうを向いた。伊藤は、このホテルのロビーに備え付けられてあるマガジンラックから一冊の雑誌を取り出し、俺の前に開いた。

 途端に俺の視界が一変する。

「……これ…」

 そこには、古い格式のありそうな剣道場で竹刀を握り、面を決めた彼が写っていた。

「こいつだよ。そっかー、剣道やってるのかー」

「やってるのかじゃありませんよ」

 雑誌の見開きを顔を突っ込むようにしてみていた俺の斜め後ろから、別の声がしてきた。

「うわっ…なんだ山県か。ひとの背後から忍び寄るなと何度言ったら分かる」

 こいつは山県有朋。このホテルチェーンの息子で、伊藤&聞多と同い年である。こいつも吉田先生仲間だが、仲間内のなかでピカ一根暗な男だった。

 山県はシャツの袖をまくり、その辺からイスをもってきてそこにどっかと座ると、脚を組んで言ってきた。

「みなさんに利用していただくのは大変ありがたいのですが、このままでは我がホテルの品位に関わりかねません。出来るならこちらではなく三階の個室をご利用ください」

「やだ」

 山県の文句に、聞多が即答した。

「個室料金取られるじゃん」

 聞多に伊藤が続く。

「山県が払ってくれるってのはどう?」

 聞多は「それいい決定!」と乗ろうとしたが、即座に山県に却下された。

「俺のことはどうでもいいでしょう。それより高杉さん」

「あんだよ」

 山県は伊藤が開いた雑誌を閉じて、表紙をぽん!と叩いた。

「ここになんて書いてありますか?」

「んー?」

 言われて俺は表紙に印刷されてある漢字を読んだ。

“少年剣士・桂小五郎”

“神道無念流を極めた若き天才の苦悩”

「え………」

 俺の胸がどきんと鳴った。俺は山県から雑誌を奪って、該当するページに一気に目を走らせた。

 そこには無心で竹刀を打ち込む彼の姿や、試合を終えて深く礼をする彼の姿があった。

 それ以上に俺を驚かせたのは、中学生で既にあの神道無念流の免許皆伝を得た経歴だった。俺も剣道を続けてきたが、免許皆伝なんてとても考えられない。

「なんだよ、これ…」

 呆然と呟いた俺に、泣き止んだ入江&栄太郎、そして現実に戻った久坂と、肩を寄せ合った伊藤・聞多と、相変わらず脚を組んだ格好をしている山県が一斉に俺を睨んだ。

「それが、お前のみた桂さんの正体だ」

 久坂の落ち着いた声がなにか言っている。

「桂さんは師の斎藤弥九郎大人(たいじん)から、後継者として養子入りの話を受けていたのさ。なにせ十四歳で免許皆伝なんて、百年に一人出るだけで凄いだろう。だが桂さんにはもうひとつの養子話があった。それが木戸家だ。…そして木戸が勝った。若き天才の苦悩とは、そういうことさ」

 久坂の言葉につられて、ざぁっという波の音とともに俺の記憶が一日前に遡る。

 夕陽の中、彼の表情は不安げに揺れていた。

『それがまるで私の未来なんじゃないか…てね』

 いつまでも届かない気がするから、海や空は苦手だと言っていた。けれど俺と親っさんと海を走ったら、瀬戸内の海が好きになったと言ってくれた。そのときの笑顔が夕陽に映えてあんまり綺麗だったから、俺はきっとまたこいつを波にのっけてやると心に決めたのだ。

 次の日、俺は悪友(わるダチ)ズを連れて木戸屋敷を訪ねた。

 彼は相変わらずにっこり笑って俺たちを迎えてくれた。俺は悪友ズをひとりひとり紹介してやった。栄太郎なんかは、彼に微笑まれて明らかに赤面した。やっぱ俺、高杉のダチやっててよかったぁ〜。そう言った栄太郎の背中を、俺は思いっきり叩(はた)いた。

 それから俺たちは彼に、真面目に下関を案内した。普段は優等生ぶいて大人しく繕っている久坂も出たがりの入江も常にパワー全開の栄太郎も、おちゃらけ伊藤&聞多も根暗の山県も、彼のふわふわとした雰囲気にすっかりとりつかれて、その日の下関観光を終える頃には、昔からのダチのように慣れ親しんでいた。

 俺たちは長州高校に入学し、ヤル気を喪失している上級生を追い出して生徒会を乗っ取り、生徒会を「村塾」と名づけて自ら企画運営した。文化祭りはもちろん、体育会、球技大会、剣道大会、漢文および英語弁論大会などを開いて、高校生活を大いに盛り上げることに邁進した。毎日が充実していた。

 俺はいつも彼の隣にいた。登下校からイベントの準備で夜遅くまで学校に残るときも傍にいた。俺が体を壊して入院したときは彼のほうから見舞いにきてくれた。どんなときでも一緒だった。





 だからムカつくじゃん。

 久しぶりに会ったお前の白い首筋に赤い跡みっけて、その相手がヒゲ野郎なだけでなくて、いままでの人生でみた人間でいっちばん嫌いなヤツだったら。

 俺といるときよりもしあわせそうにしてたりなんかしたら。

「ムカつくんだよ…」

 机の上に放って置かれたままのレモンムース。

 ドイツから急遽帰国した俺を待っていたのは、プレ見合いみたいな会席だった。連れてこられた女はけっこう可愛くて、断るのが難しいんじゃないかと思ったけど、まだプレの段階だから、気にしないことにした。

 ていうかさ。

「……」

 本心はそんなじゃない。

 俺はがっとスプーンを掴み、ムースを掬って口に入れた。

 やけに酸っぱかった。

 いまさら自分の気持ちに気づくなんて。

 視界が滲んだ。

 睫毛に溜まった液体がぽろりと零れてムースの上に乗っかり、窓から差し込んでくる日光を浴びて、初めて会ったときのお前みたいに、きらきら光った。



 晋作の想いを甘酸っぱいレモンムースの味に寄せて。
 (全国二億六千万人の晋作ファンに投げ飛ばされそうな)ちょっと悲しいクリスマスプレゼントでした。
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覆霞レイカ・ぷれぜんつ