Komori Uta yo


 母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ




 久しぶりに本宅へ戻ったのは日もとっぷり暮れた時刻だった。

「お帰りなさいませ」

 妻の時尾が未だ寝付けないだろう息子の勉を抱いたまま出てきた。

「んう~う、」

「父上がお戻りですよ。勉はもう寝ましょうね」

「ん~~」

「あなたが帰ってらっしゃるのをずっと待っていたんですよ。どうしてもと聞かなくて」

 時尾が困った、と眉をやや顰めて勉の寝ぼけ眼を見つめた。そんな時尾から俺はひょいと勉を抱き上げた。

「それなら、俺の腕で眠れば勉も納得するだろう。何か肌掛けになるものを持ってきてくれ」

「はい」

「ほら勉、寝るぞ」

「…んー…」

 時尾が暗い廊下を足早に通り、俺の単禅と勉の掛け布団を持ってくる。俺は畳に腰を下ろし、膝に勉を抱いて布団をかけ、自分は肩から単(ひとえ)を被る。

 蕎麦だけでは足りないだろうから、と時尾が拵えて来た煮物を摘みながら酒を飲むうちに、勉は布団と同化したように全くの塊になって動かなくなる。

 それを笑って寝室へ連れて行く時尾と、時尾の背中を見送る俺。

 変わることの無い日常。

 対照的に、時代はどんどんと俺を追い越してゆく。

「………」

 大久保の女が死んだ。

 十日前のことだ。




 満寿という女を見たのは、例の五月十四日を含めても数回だけだった。

 痩せて色が白く、大久保に似て一見薄い印象を覚えた。印象からすれば、うちの時尾の方が強いと思う。それくらい動乱には相応しくないかに見える女だったのだ。

 満寿には大久保との間に長男・彦熊を先頭に六人の子供がいた。余談だが、大久保は自分の全ての息子に「熊」の字を宛がっていた。どうも薩摩にいた頃、大久保を教育した人物の中に「隈」だか「熊」のつく人間がいたらしいのだ。

 子供たちも見たことがある。三歳になったばかりの、奴が一番可愛がっていた長女・芳子のあどけない姿も見た。年齢から考えれば孫でもおかしくない娘を、大久保は目の中に入れても痛くない程に可愛がったそうだ。ただでさえ良き父親だったのだから、それは余程のことだったのだろう。政界に骨の髄まで浸りきり表も裏も知り尽くした男が、その実は非常に家庭的で、自分の妹も含め家族をこの上なく大切にしていたということは―――――余り、知られていない。

 もう一人大久保には女がいて、名を「ゆう」と言う。大久保が京都にいた頃あるいは東京に拠点を移した頃からの仲らしく、彼女の存在を満寿は知っていたと聞いた。なにせ、満寿の生んだ長男と次男(のちの牧野伸顕)の養育を行ったのは「ゆう」だと言うではないか―――――…

 満寿亡き今、その「ゆう」が満寿の代わりに主の無い大久保家へ迎えられた。あいつの家のことだ、腹違いなど気にせずに、穏やかに事を進めるのだろう。

 家を訪れた喧騒の日に目にした、大久保に良く似た子供たちの顔が浮かんでくる。大人しさと鋭さの同居した、例えようの無い目をしていた。

 だが俺ははっきりと覚えている訳ではなかった。

 あからさまに真っ直ぐな、まるで、あいつと向き合ったかのような錯覚を覚え、思わず俺は目を逸らしてしまったのだ。彼らの父親を、警察の身であるにも関わらず守れなかったのだから。

 そんな俺とは対照的に、満寿という女は気丈に働いていたような記憶がある。それを見て分かったのだ。あの男(大久保)にして、この女ありかと…

 その満寿が死んだのだ。

 ひとつの時代が完全に終焉したことを、俺は再認識しなければならなかった。

「…女、か………」

 女という生き物は、俺には分からない。体は弱いくせに何かを転機にして精神は愚か肉体まで強化するような気がする。その割りに、死ぬとなったら男より遥かに貧弱に死んでいく。

 強いのか弱いのか、皆目検討がつかない。それが、俺が時尾や満寿を始めとする女たちに抱いている印象である。

 そしてその印象があり過ぎる女がもう一人、俺にはいるのだ。




 俺は呆然と密偵宅の玄関先に佇んだ。

 この家の表札が「藤田」から「赤城」に変わっていたのだ。

「…お前な」

「いいじゃありませんか」

 反省の色も無いままに、呆れ顔の俺に向けて、やそは微笑む。

「寧ろ本宅をお持ちなのにもう一軒、藤田姓の家を管理なさる方が妖しいですわ。手続きはちゃんとしておきましたから、問題はございませんし」

「赤城って何だ赤城って」

「私の名ですわ。即座に思いついたんです」

「…お前を普通の女と思った俺が阿呆だったよ」

「だって可哀想じゃありませんか」

「何が」

「この子は少なくとも“藤田姓”を名乗ることは出来ないのですから」

「!…」

 不思議な出生をした子供は漸く畳の上を這い回るようになってきた。やそは母親役、否、母親として子を抱(いだ)き、この家を切り盛りしている。

 やそは俺と別れたのち倉沢という家にいた時期もあったのだが、倉沢姓は東京では兎も角、斗南では会津の関係からすぐに割れる姓である。だから倉沢姓は名乗らないことにしたのだろう。

「赤城か…まぁいい。が、この書物の山は何だ」

「大将様が置いていったものですわ。時々ここで読書に耽っておられます」

「ここは俺の別宅だぞ…」

「いいじゃありませんか。御礼も毎月変わらず戴いていますし。私たち、何一つ困っていません。ねぇ加奈さん」

「ええそうですとも」

「……好きにしろ」

 俺が溜息とともに吐き捨てると、やそは、ほほほ、と笑って縁側から差し込んでくる日光のなかで、畳の上の乾いたばかりの衣服と戯れる子供を抱き上げた。

 途端に零れる笑顔。

 斗南で俺と居た頃には凍り付いていたというのに―――――

「ふぅ」

 女は、分からない。




 大抵、俺がこの家に来るのは夕刻近くになることが多いから、ここから眺める夕陽が案外美しいことを知っている。尤も俺が知っているのは、二階からの景色であり、一階の居間からの眺めが良いのは初めて知った。

 夕焼けと夜空が入れ替わる頃合いの空気は物悲しくあり、また何とも言えない安堵感を齎(もたら)すものでもある。外からの光が弱くなっていくにつれ、やそに抱かれた子の瞬きの回数が増えてきた。

 すると、やその口から、聞き覚えのある旋律が流れてきたのだ。



 子守唄だ



「お前、何を考えている?」

 と、俺はやそに問うてみた。

 やそは「?」と言う表情(かお)をして俺をみた。紫色の組紐で緩く縛った長い髪が、艶やかに揺れる。

 髷をきちんと結う時尾に比べ、やそは髪も服装も自由な印象を受ける。紐の結び方も、この女は何通りも知っていて(しかも京都の花街でさんざ遊んだ俺でも見かけたことのない結い方なのだ)、多様さに山県も感心する程だった。

『斎藤…お前、あの、やそとか言う女はどこで見つけてきたのだ』

『そんなこと聞いてどうする』

『いつだったか二藍(ふたあい)色の巾着が開いていたのだが、立派な貝覆い(貝合)が一組出てきたぞ。それに遊び好きの伊藤が、心当たりがあると言っていた。時折みかける紫の良く似合う女で、切れ長の背の高いのを妾に囲いたかったとな。…細かいことは兎も角、見目は良いからな』

『気をつけるんだな。あいつは、ただの女じゃねぇんだからよ』

『……武道を嗜んでいるとか』

『およそ“道”のつくものなら何でもやるさ。知人も多い。阿呆な真似をして寝首をかかれんよう、精々精進しておけ』

 言って俺は美しく生けられた花を指差した。どこかの流派の―――――おそらく維新側の藩の―――――生け方なのだろう。山県は無言で溜息をついた。山県が言うには、やその小袖の襲(かさ)ねの色目は、大昔の皇族や貴族が嗜んでいたものなのだそうだ。そういえば、時尾の小袖の色遣いとはだいぶ違っている。

 当然だ。やそは維新前、朝廷についていたのだ。だからこいつの身振り身嗜みなどは、武家の出の時尾と異なり、朝廷譲りなのである。あの貝覆い一組は、子供が大きくなったら遊ばせるなどと言っていた。大方、誰かから譲り受けたものなのだろう。

 ―――――今はこうして俺の前に端座して、普通の女をしているのだが。

 そして昔よりも今の方が幸せだと呟くのだ。普通の生活を営めるから、と。

 華やかで煌びやかな方が良いと思うのは男たちの方であり、女たちはそれらを好いてはいるが、愛しいとは思っていないのだ。それでいて着飾ると美しいと分かっているから着飾る。

 まったくもって女は―――――今この瞬間も、分からない。

「何って、なんです?」

「…そうやって歌うとき、お前は何を考えるのかと聞いたんだ」



 子守唄と呼ばれる歌を歌うとき、女たちは何を思うのだろう。

 腕のなかの子供だろうか それとも

 その子の父親であり、自分を抱いた男―――――なのだろうか

 密偵の仕事は年がら年中立て込んでいる為、俺は本宅にもこの別宅にも、他の連中に比べて戻る機会が少ない。だから俺の知らないうちに子が大きくなっていて、驚くことも侭あることなのだ。加えて、女の顔容(かおかたち)が微妙に変わっていくことも。

 やそは、斗南に居た頃に比べて明るい表情をみせるようになった。やそに重なる、痩せこけた満寿の顔―――――…

 満寿は大久保を

 ゆうは大久保を

 仕事で忙殺されてゆっくりとした平穏に寛ぐことのない男を、女たちは静かに待っていたような気がする。

 帰ってきたのは…亡骸だったのだが。

 それでも女たちはそれぞれに歌って来、ゆうはこれからも歌わなければならない。誰を待つでも無くたったひとり、それ以外為す術も無く

 為す術も無く…



「……秘密」

 俺の問いに、やそはそう言って穏やかに口元だけで笑い、低い声で再び歌い始めた。

「………そうか」

 子守唄。

 それは、

 或いは、慌ただしく駆け巡る男たちに向けられた、平穏な毎日を営むしか無い無力な女たちからの恋歌なのかも知れないのだ。




 暫くすると、やその腕のなかの子供はすっかり寝入っていた。鳶色の髪の毛がだいぶ伸びて、あいつの顔を思い出す。

 大久保の子らも寝たのだろうか。

 あの幼い長女も、「ゆう」に抱かれて眠ったのだろうか。時折、冥土に旅立った父母(ちちはは)を乞うて泣くのだろうか。

 …俺が死んだら、勉もこの子も泣くのか…やそは、時尾は、どうなってしまうのだろう…

「…お疲れですか?もうお休みになっては」

「……ん、ああ、」

 酒も注がずにぼんやりしていた俺に、やそが声を掛けてきた。子供はもう、布団に入れられていた。部屋にいるのは、俺達だけである。

「膝…貸してくれ」

 斗南にいた頃のように求めると、やそは一瞬目を細めた後、静かに俺の前に膝を寄せてきた。

 俺の頭が膝に乗ると同時に、やそは自分が肩にかけていた羽織を俺の体に掛ける。羽織には彼女の温もりが十分に残っていた。

「風邪ひくぞ」

「…あっためてくださるんでしょう?」

「…ぶ、クク……」

 俺が笑うと、やそも笑った。

 俺だけに対する笑い声を聞くのは、久しぶりだ。

 ひとしきり笑って、俺が目を閉じた後、やそが俺に尋ねてきた。

「あと少し…歌っていていいですか」

「…何だ?」

「子守唄…」

「……ああ」

 答えると、やそは歌い出した。子を起こさぬ、それでいて夜に良く響く声で―――――俺は目を閉じてはいたが、やその唄を聴きたいと思ったから、起きていた。

 そうして俺は思うのだ。

 俺は未(ま)だ生きている。

 生きているから、こうして子守唄を耳にすることが出来る。俺の子供を身篭ったばかりに苦悩した、それでいて俺の呼び掛けに応じ、ここに来て息を吹き返した女の、小さな子守唄を。

 誰に求めるでなく、誰に聞かれるでもない、唄。それでも歌わずにはいられない唄。

 それは少し、人生に似ているかも知れない。

 ただのうのうと生きていただけでは、誰からも振り返られないし、誰からも必要とされないだろう。だから仕事の分野では、自分の出来る努力というものをし、実力をつけなければならない。一方、家庭では、そこが朗らかであるように責を負い、努めなければならない。

 人間は、身近なところを含めた世に尽くすのが、為すべきことなのではなかろうか。例えそれが、自らの苦悩と絡んでいても。そしてそれが、大久保が真実為したかったことなのではなかろうか。だからこそあんなに懸命に、守ろうとした。

 そして大久保は守ったのだ、全てを。大久保の為そうとしていたことが奴の生き様を通じて妻子に確りと伝わっていたから、主を亡くしても大久保の家は断固まとまっているのだ。

 俺もそんなふうになりたい。政治は出来ないが、一人の男として、子供は勿論、俺には分からない、しかし俺には出来ない生き方をしている女たちを―――――守りたい。

 そんなことを思い始めた…今日この頃。

「…やそ」

「…はい」

「……もう少し、歌っていてくれ」

「………はい」

 聴いていよう。普段、彼女がひとりで歌う唄を、眠った子の代わりに、いつもついていてやれない自分の代わりに、そして「ゆう」が乞うているのであろう、大久保の代わりに。




 母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ

 母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ

 然(しか)しその声は、どうなるのだらう?

 たしかにその声は、海越えてゆくのだらう?

 暗い海を、船もゐる夜の海を

 そして、その声を聴届けるのは誰だらう?

 それは誰か、ゐるにはゐると思ふけれど

 しかしその声は、途中で消えはしないだらうか?

 たとへ浪は荒くはなくともたとへ風はひどくはなくとも

 その声は途中で消えはしないだらうか?



 母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ

 母親はひと晩ぢう、子守唄をうたふ

 淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?

 淋しい人の世の中に、それを聴くのは誰だらう?




(中原中也「子守唄よ」引用)