Hutari kiri no KODOKU





 鎮西で薩摩が立って数ヶ月。

 大久保は太政官代表として京都旧御所に詰めていた。

 毎日毎日電報が届く。戦況は当初危ぶまれたものの、次第に政府の側に軍配が上がりつつあった。それは大久保の故郷に郷党の血雨が降るということであり盟友・西郷を確実に追い詰めているということを指す。

 この戦は、西郷が消えるまで誰にも止められない。大久保はばらりと落ちてきた髪を掻きあげるのも忘れて額を押さえた。蒼白い手の震えが止まらない。

 あの男が荷担しているなど嘘だと、信じられるものなら信じたかった。

『薩摩に祭り上げられた陸軍大将がそんな筈はないでしょう?貴方は西郷のことになると目測を誤られる。…そんなに良かったですか?散々抱いて差し上げたのに』

 そう言ってきた山県の頬を、人目も憚らず大久保は殴っていた。空間がざわついて背中に夥(おびただ)しいほどの視線が刺さろうが構わなかった。

『……』

 山県は切れた口の端から沁み出た血を手の甲で拭い、彼にしては珍しく笑って言ってきた。

 西郷と同じ黒曜石の瞳を鈍く光らせながら。

『先日陸軍省に貴方に非常に良く似た方が訪ねて来られましてね、斎の藤(ふじ)とか言う男の上役としてつくそうなので』

『……』

『喜んで前線にお送りすると応えました』

『貴様…』

 大久保が顔を強張らせると、いったん恐ろしいほど真顔になっていた山県は鼻でせせら笑った。

『――――死んでしまえばいい、あんな男など。あの男がいると貴方は余計な感情をお持ちになる。貴方は我々の人形であればそれでいいのです、西郷が薩摩でそうなったように。御揃いで御満足でしょう?…フ、フフフ…』

 山県は福岡へ発った。軍の統帥権は山県が握っている。てっきり最初から斎藤を旅団に引き入れると思っていたが、そうではなかった。山県は、より凄惨な状況で斎藤を使う腹積もりなのだ。

【帰ってくるな?】

【ああ】

 約束が遠い過去のようで、大久保は震えた。ここのところ眠りが浅く、微熱が続いているから、この震えは感情に由来するものだけではないかも知れない。

 大久保は、京都に来て以来漠然とした不安感にとりつかれていた。それが何なのかは釈然としないのは、まだ明白にさせたくないためなのかもしれなかったから放っておいた。

 そうこうするうちに明治十年も五月が過ぎ六月が過ぎ、京都は夏を迎えている。気温と対照的に大久保の心は醒めていた。

 冷たいまま、もうすぐ壊れる気がする。西郷が息絶えると同時に。そしてそれがたぶん、いちばん相応しいのだ。

「…」

 不意に呼ばれた気がして顔を上げると、取次ぎの者が、ある男が鎮西から大久保を訪ねて来たと言う。大久保は通した。

 応接室に入って大久保の目に飛び込んできたのは、内務省で何度かみたことのある若い警官だった。川路の密偵も務める警官は緊張した面持ちで、やってきた大久保に低く頭を下げた。

 最初に警官は木村と名乗ったが、驚いたことに療養のために昨日鎮西から戻ってきたばかりだと言った。

 彼の左目には包帯が幾重にも巻かれていた。

 大久保はこの青年から視界の半分を奪ったのだ。

「自分は豊後口警視徴募隊二番隊隊長・玄丈将明の命により参上致しました」

 大久保は無言で頷き、警官の話を促した。

「先日、藤田警部補が負傷しました」

 ぴく…と大久保の周りの空気が揺れた。警官はその様子をじっとみようとしたが、すぐに針のような大久保の視線に射抜かれて慌てて視線を大久保の顎のあたりにずらした。

「その…いまのところ、命に別状はありません」

 そうか……

 大久保は胸を撫で下ろした。しかし警官は話を続けたい様子であり、つまり斎藤に関するなにかを、玄丈は大久保に知らしめたいのだ。

 あの男は一体なにをしかけてくるのだろう。大久保は玄丈の、自分に良く似た顔を思い出そうとしたが嫌悪感がそれを許さなかった。

 この嫌悪感は、或いは大久保の自身に対する感情なのかもしれないが。

 忌々しい。

「銃弾は貫通しましたので怪我は大したことありませんが、」

「なにかね」

 珍しく、大久保が次を急かした。斎藤のことなら兎に角知りたかった。…彼は大久保にとって、そこまで来ていた。

「…は」

 警官は驚いたらしく、大久保の堅い声にぴんと背筋を伸ばして口元を引き締めた。しかしそれでも覇気はなく、目の前の大久保に恐れを抱いているようだった。多くが感じると言う畏れとは違う、なにか、予感のような戦慄(わなな)きを。

「いまは療養所で安静にしておりますが、熱が一向に下がりませんもので」

 確かこの警官は斎藤の取り巻きだったと思う。

 不思議なことに、斎藤は元新撰組で元会津藩士という肩書きの悪さ―――――少なくとも、この明治政府下にあっては――――にも関わらず、一部の同僚や部下に酷く慕われているようだった。毛嫌いする連中もいるが、剣の腕で警視庁随一であることと戊辰以来の彼の不敗神話が、連中をして畏れさせていた。その斎藤は当然の如く征討軍に名を連ねて、五月中旬南下した。

 西郷を殺して来いとの、大久保の命令を遂行するために。

 そしてそれは実現されようとしている。大久保と同じく薩摩の血を引く男たちの顔が浮かんでは消えた。いままでに死した顔も、これからそうなる顔も…浮かんでは消え…浮かんでは消え…在りし日に、確かにこの躯を抱いたのに………

 これから自分は誰の名を呼べばいいのだろう。

 西郷か?

 斎藤か?

 或いはどちらもいないとか。

 たったひとりで生きよとか。

 そこで大久保はわかった。長い間自分は、そのいずれを取るのかで迷ってきたことを。

 斎藤一という人物に、西郷ほどの期待を抱いていいのかということを。

 …そして多分、無理だということを。

 ああ。

 漠然とした不安感とは、これだったのだ。

 玄丈の言葉が当たった。

『貴方は彼を突き落とす』

 …つまり大久保は斎藤が大久保に抱くだけの想いを抱かず、斎藤を抱きながらも瞼の奥で別の男を想っており、そのことがいずれ斎藤を為す術もない絶望に追い込むのだということ。なぜなら西郷は近いうちに消えるのだから。たったひとりの声望で薩摩が立ち上がらせるほどの男に勝てる者などいないのだから。

 たとえどんなに不死身の男であっても。

 このことに気づいたらあいつはどうなるだろう。大久保でさえ、玄丈が間違いで西郷の閨に引きずり込まれたのを知って以来、玄丈に対して身を焦がすほど嫉妬してきたのだ。

 それが、大久保が殺せと命じた男であるならば。

「藤田さんは、夜はとくに魘(うな)されています」

 警官の重い口調に大久保ははっとした。そして思い返せば、いままで例え徹夜が続いても斎藤が魘される姿をみたことがない。

「朝になっても起き上がれず…日中も、藤田さんらしくない、酷く落ち込んだ様子で…食事もろくに摂らない状態なので、見込んでいたよりも回復が遅れています」

 見慣れた斎藤の背中を思い出す。あいつが落ち込んだことなどいままであっただろうか。

 そうして大久保の脳裏に蘇るのは、玄丈の姿。郷里へ出陣する前に大久保のもとを訪れ、何も知らない斎藤を戦地へ赴かせて平気なのかと大久保に憤り、非難した。それは西郷に死を選ばせた大久保に対する当然の仕打ちであった。

『代わりに貴様が死ねばいいのだ!』

 言葉にならない玄丈の叫びが、その薄い体中から溢れ出てきたように大久保には思えて。

 罪もない男を、薩摩の代表というだけで業火のなかに叩き込んだ大久保。それを黙って受け止める西郷。そのふたりを知るすべてのひとびとの大久保に対する怒りを、玄丈が形にして表したのだ――――――…

『みぃよ、一蔵じゃ』

『…あれが…?西郷(せご)どんな稚児ちゅーこつは聞いちょるが…』

『食えん男じゃ。どげんチャリ(冗談)にも笑いもせん』

『薩摩人じゃなかー』

『違(ちが)ごっ』

『?』

『あれは人でなしよ』

 どんな誹謗にも耐えられたのは、隣に吉之助がいたから。だがもうすぐにいなくなる。だから大久保はついに、ひとの形をなさなくなるかもしれない。山県が言い放ったような、ただの人形に成り果てるかもしれない。

 心が枯れれば、どんなことにも応えることはないだろう。

「……」

 我ながら、諦めが悪いと思う。

 諦められぬならなぜ中途半端にせずに真剣に斎藤と向き合わないのかと、玄丈は責めたのに。

 取って悪い道ならば、最初から歩まなければいいのに、なぜ自分は過ちを繰返すのか。

「………」

 まさか西郷はそれを終らせようとして、業火にその身を投じたか。在り得ぬことではない。あの男の考えることなど、手にとるように分かるのだ。

 ならば自分もいかねばなるまいと、大久保は思った。

 …いや……それは最初から決めていたことだ。

 玄丈はそのことでも大久保を責めたのだろう。玄丈将明…大した男だ。

「木村君」

 大久保は、この警官の名を自分の唇が覚えていたことに驚いた。こういうときにも理性だけは干からびているのが憎らしい。

「はい」

「藤田君が無事ならばどうして、玄丈君は私のところへ君を派遣したのかね」

「……」

 木村は黙った。戸惑う様子を伺い見るに、この警官は玄丈とは大して親しいわけではなさそうである。だから上司たる玄丈の真意も分からぬままに、玄丈が大久保に伝えたいことだけを告げに来させられたのだ。玄丈は人選を誤るような間抜けとは程遠かった。あの男の狙いが何なのか知る必要があった。

「私は…」

「…」

「…詳しくは存じ上げませんが、玄丈の考えは多分……」

「多分で構わんよ」

「はい……藤田さんは魘されながら、とても苦しそうに…その……あの……大久保卿の、お名前を、呼んでいますものですから、多分それで…」

 瞬間、大久保の心のなかでなにかが音をたてて弾けたと思った。

 この音には聞き覚えがある。

 天地が離解するような、雷鳴が轟くような、心がいきなり砕ける音。

 ああそうだ、これは賊軍に吉之助が加担していたと解ったときに聞いた、破滅の音だ。

 …知ってしまったか…

「大久保卿!」

 気が付くと、大久保は警官の腕のなかにいた。いつのまにか倒れていたらしい。警官に支えられて、だが、大久保の耳に響いてくるのは警官の息づかいではない。

 闇をみつめ真っ向から血を浴びても尚立ち上がる彼の鼓動であった。すぐ傍で聞こえた気がした。

 穢してはならない不滅の魂だったのに。

『俺は不死身の男だぜ?』

 笑いながらぎらりと光らせた瞳の奥に、大久保は求めているもののすべてを見出した気がした。手放すべきではなかった。なのになぜこんな形で突き落としてしまったのか…

(斎藤…!)

 心で叫びながら、大久保は自分で自分を抱き締めていた。せりあがってくる激情を押さえつけるために。…せめて鎮西で傷ついた斎藤の躯が芯まで凍えてしまわないように。

 暫くして大久保は口頭で警官を下がらせた。部屋に篭り、襖を開けると京都の夕陽が真赤に泣いていた。斎藤を見つけ、探したこの土地でいまの大久保に出来ることは、国家の行く末を見失わないことと彼の無事を祈ることだけだった。だがそれでは収まらない。

 すべてを曝け出されても会いたかった。あの白い肌が欲しかった。絶望に打ちひしがれて大久保を夢求める声が、すぐ傍で聞こえる気がした。そしてたぶんいまも泣いていることだろう。こうして大久保が涙するように。

「……フ」

 泣きながら、大久保は微笑んでいた。それは人形のように美しく整った貌であった。

 これで外野に煩わされることなく、共通の世界に斎藤を閉じ込めることができる

 真っ向から向かい合い手探りで互いを知るしかない 狭くて暗い絶望に

 もう 離さない

 もう 離れない

 俺たちはもう

 誰にも邪魔されない ふたりきりの孤独





「…斎藤」

 これで俺は お前のものだよ





This novel is directly linked to "HOSHI HURU YORU WO WASURENAI" in La Campanella and "ADABANA","HANA CHIRU YUBE NI ADA HA SAKI","KIMI GA JINSEI NO TOKI."
BGM:Color of Your Dream/SOLID BASE<<express>>