.....after"vol.1/Taste your candy☆kiss."

Baby,maybe,crazy





 夏も近い日の夜、大久保家のリビングはしぃんとしていて、折角温かい季節だと言うのに、生きた心地がしなかった。

「カズ」

 と、利春が声を掛けようにも、小さな背中があまりにも寂しそうで居たたまれないのだ。

 一希はフローリングにひとりぽつんと座って床を見つめている。漆黒の前髪を、伸ばした両足につけてしまいそうな位、がっくりと頭を下げている。透ける金の瞳には、木目さえ映っていないのだろう。

 利春はそっと溜め息を吐きながら、食卓に残っている食器をキッチンに運び始めた。

 二人の父親である大久保がアメリカから帰国して、漸く手に入れた一家団欒が、それから一月も経たないうちに壊されてしまったのだ。目を覆いたくなるような事件が立て続けに起こり、更にそれらが複雑であるため、警視庁捜査一課で副課長を務める斎藤が仕事に追われて、ここ一週間は連日で警視庁に泊り込んでいた。

 まだ四歳を数えるばかりの一希には、寂しくてたまらない。これまでも斎藤が一日家を留守にすることはあったけれども、それですら辛くて、留守を任された斎藤の姉や近所に住む緋村や蒼紫が訪ねてきても、泣きじゃくったりした。尤も、四歳になった今では緋村とも蒼紫とも仲良しで、遊んで疲れてぐっすり眠り、次の朝目が覚めると斎藤が戻っているから、耐えられた。

 が、今回は一週間も斎藤と会っていない。一希は刑事という仕事の煩雑さを理解しつつあるようで、会いたい、とか、お電話して、とかいった類の我儘はしないのだが、やはり「ままどうしたの?」「今日帰ってくる?」など聞いてきて、きっと帰ってくるよ、と答えても斎藤は現われず、そのたびに大好きなおやつを少ししか食べられなかったり、アニメを見ても笑えなかったりと、全身で悲しんでいた。

 加えて、ここニ三日一希は斎藤について一言も発していないのだ。ずっと面倒をみてきた利春からすれば、寧ろそれが恐ろしい。我慢しすぎて、今回のことがつまるところのトラウマになってしまうのではないかと、甚だ心配なのである。

 こんななら、泣いてくれたほうがいいな…可愛いし…いや、それは違うか…

 とうの利春は、一希と同様にがっくりと項垂れる大久保の面倒を余裕でみるほどの大人で(まだ八歳なのに)、主婦(?)のいない大久保家をしっかり取り仕切っている。風呂洗いはもちろん、小学校からの帰り道で幼稚園に寄って一希を迎えに行き、そのついでに買い物をして夕飯を作り、湯を整えて動きの鈍い大久保を急かして一希と風呂に入らせ、その間に洗濯をしてアイロンをかけ、次の日の米をといで予約スイッチをポン、完璧である。

 大抵の小学生は放課後や夕食後、進学塾等に行くのだが、利春は去年の国際数学オリンピックに特別招待されて初出場で優勝し、学費免除などを条件に各国の有名校(大学を含む)から未だに留学を懇願されているのだから、塾など行く必要は皆無である。もちろん成績は全国の学校中で(Not学年中)ナンバーワン、IQは測定不可だそうだ。

 かといってガリ勉しているかといえば、それはなく、一希で、いや、一希と遊びもすれば友人とも然り、雨の日には大久保の部屋にあるスタンダールの「赤と黒」やアインシュタインの「相対性理論」などを原書で読んだりしていた。まぁその話はともかく、利春は斎藤がいないところで寂しさを感じはしても、父親や弟とは異なり、落ち込んだり動作が止まったりということはなかった。

 そういう自分の異常さは理解しているつもりではあるけれど…

 通常の発育をしているはずの一希が、これまでと異なって母親に関して言葉や声で無反応に近い状態を呈しているとしたら、小さな心になにかあるのではないかと考え込んでしまうのだ。悲しみすら表現できなったら、人間は終わりなのだから。

「カズ」

 と、呼んでみる。すると一希はそぅっと頭を上げて、対面式キッチンで食器を拭き終えてリビングへ歩いてきた利春を見た。

 瞳にはどうしようもない悲しさを湛えている。小さな緋い唇を少し開き加減でこちらを見つめてきた。助けを求めるような貌をして。

 利春は一希の前に立て膝をついて、漆黒の髪をそっと撫でた。

「…もう八時だよ。眠くはないの…?」

「……うん……」

「風邪をひくといけないから早く休んだほうがいいけど…ココアとか、飲んでみる?」

「……ううん……虫歯しちゃダメって、まま言うから、」

 そこで、一希の唇が止まった。胸に抱いていた、“ぱぱ”が徹夜してつくったテディ・ウルフを抱き締める力がほころんで、また首ががっくりと折れてしまう。

 ああ、と思って利春は一希の脇に腕を通して、その体を抱き上げた。もちろんテディも一緒だ。眠くない、と言いはしたが、一希の顔は既におねむの状態だった。

 抱くと、一希の体はかなり冷えている。大久保がぬるめの湯が好きとは言え、幼児にとっては風邪は辛いのだ。増して、精神的に参っているこの状況で体までやられて肺炎にでも罹ったら、折角斎藤が戻ってきても喜べないだろう。

 そう判断して、利春は一希を寝かせることにした。リビングを出て廊下へ至り、子供部屋の扉を開ける。

 開けようとして、一希に聞いてみた。

「今日は、お父さんのところで寝るかい?」

 数日前から、一希は言葉での表現はしなかった。誰も困らせないようにとひたすら耐えていたのだが、実は今日、利春が夕飯の準備をしてしばらく経つ頃、音がなくなったのでふとリビングを見ると、遊んでいたはずの一希の姿が消えていたのだ。子供部屋、手洗い、洗面所等思いつくところを全部探したが、どこにもいなかった。いつも一緒にいたテディもリビングに置いたままだった。

 おかしい、と首を傾げた瞬間はっとして大久保と斎藤の寝室の扉を開けると、ダブルベッドの、ちょうど斎藤の眠る側の布団がこんもり盛り上がっていた。声をかけても反応がないので静かに近づくと、一希が涙で頬とシーツを濡らして眠っていた。…利春はずれていたタオルケットを掛け直してやったが、一希のそんな表情を目にして、自分まで切なくなったのだった。

 だからそのベッドで寝るかい、と尋ねたのだが、

「…ひとりで寝れるよ、ボク……」

 というので、そうか、と言って漆黒の髪を撫でてやる。

 一希が断ったのには訳がある。情けないことに、斎藤が戻らない夜は一希と同様にというよりもそれ以上に落ちこんだ大久保が、一希を更に落ちこませてしまうようなことを言うのだ。「きっと“まま”は“ぱぱ”のことなんてどうでもいいんだ」とか、「“まま”の作った野菜スープじゃなければ食べたくない…」とか言いながら真実涙目になる。一希はそんな父親(こんなでも父親だから)を一生懸命慰める役にならざるを得ず、結局悲しみ十倍で疲れきってしまうのだった。

 利春は、カズは良い選択をするようになった、と感心しながら子供部屋の扉を開けて、ふわふわと香る体を腕から降ろしてベッドに横にした。テディを枕もとに置いてやるのを忘れない。

「カズが眠るまで、ここにいるよ」

「…うん」

 言って利春は一希の小さな掌を自分ので握ってやった。利春には少々不眠の気があり、一希のように不安な夜は誰かの温もりが欲しかったことを覚えている。

「おやすみ」

「…オヤスミなさい」

 呟いて目を閉じた一希ではあるが、利春にはやはり無理して瞼を閉じているようにしか見えなかった。

 …今日は帰れる、という連絡を実はもらっているのだが、この時間になっても戻らないということはやはり今日中は無理なのか。そんな疑問と諦めをかみ締めたときである。

 玄関の鍵が音を立てたのが分かった。

 はっと振り返って耳を澄ます。と同時にベッドの上の一希が起きあがって部屋の扉を開けて勢い良く突っ切っていった。慌てて利春も玄関に向かう。

「まま!!」

 呼ぶと言うより一希は叫んだ。

「カズ…っと、」

 利春が廊下に出ると、両腕を伸ばした一希がぴょんと跳んで、屈(かが)んだ斎藤の…“まま”の首根っこに抱きつくのが目に入った。

 ひし。

「……っ」

「ずっと待っててくれたんだな」

 ぎゅぅぅ。

 斎藤の言葉に一希は一生懸命にしがみついて頷くだけで返事もできない。斎藤はそんな一希の体を優しく撫でてやるのだった。

「全部任せきりで悪かったな、利春」

「いえ…」

 答えながら利春は斎藤に抱きついたままの一希を斎藤から離した。一希は眠ってしまったのだ。斎藤が帰ってきたので安心したのだろう。利春もほっとして、くた〜となった一希を抱いて斎藤を見上げた。

「僕たちはもう大丈夫です。“あのひと”は浴室から出てこないので、そちらに行ってもらえますか?」

 利春の言葉に、斎藤の頬がぴくりと動いた。

「あいつ、本当に全部をお前に任せていたんじゃないだろうな?」

「…そういうひとですから。では、おやすみなさい」

 利春は一希を抱いたままぺこりと頭を下げて、子供部屋に消えていった。





 アイボリーに統一された広めの脱衣場に入ると、ちょうど黒いバスローブを体に巻きつけた大久保がいた。ただし背を向けたまま濡れた髪を乾かそうともしない。じぃっと鏡越しに斎藤をみつめてくるのだった。

「…ただいま」

「…随分遅いお出ましだな」

 殊更に声を低めて、大久保は返した。案の定だ、とでも言いたげに斎藤はふぅと息を吐いて背中を壁にもたれさせる。その間にも、鳶色の髪の毛からはぽたぽた水滴が垂れて来て彼の肩を濡らすのだった。

「毎日メール入れたろ? そんな怒ることないだろうが」

「…別に怒っているわけじゃない」

「じゃぁなんだよ。スネてんのか?」

「茶化さなくていい。…で、事件は? 解決させたんだろうな?」

「お蔭さんで組織は壊滅。ついさっき全員逮捕した」

「…家族を犠牲にした甲斐はあったというわけだ」

「……」

 恨みがましい声。

 やっぱ怒ってんじゃねぇか。

 そう言ってしまおうとしたが、言ったところで大久保と自分の気持ちはすれ違うだけだろう。そう思った斎藤は背中を壁から離して真っ直ぐに立ち、鏡の中の大久保と目を合わせて口を開いた。

「ちゃんと有給取ってきた。ニ日間、絶対仕事は入れない。だからもうスネるのはやめてくれ」

「……たったニ日か」

 斎藤の大久保に対する愛情はそれっぽっちなのか。腹が立つよりも更に落ちこんだ大久保は、川路に電話して長期休養でももぎ取ってやろうかとも考えはじめる。携帯にメールすれば一発だ。今回に限っては絶対有無を言わせない。

 正直に言えば、大久保は斎藤を家のなかで囲っておきたいのだ。子供も産んだことだし、育児に明け暮れて“まま”振りを見せて欲しかった。それに関しては捜査一課課長の山南の賛成も取りつけてあるし川路には反対させない自信がある。だが一希を産んでからも、ついに辞めるとは言わなかった。

『こだわってるわけじゃない。ただ、悪人どもが許せないんだ』

 …もしかしたら一人の親になってから余計に、こんな思いが強くなったのかもしれないな。

 そう笑った斎藤を、もはや止めようとは思わなかった。

 だが一週間も放っておかれると、流石に穏やかではいられない。いや我慢にも限界があるというものだ。「まだ帰れそうにない」という連絡を貰うたび、家事が手につかなるほど落ちこんで、気を利かせた利春に任せていたのは事実だが、かと言ってそうさせたのは他の誰というのだ。

 その誰かさんは憮然とした面持ちで鏡のなかの大久保をみつめてくる。反省の様子は認められなかった。

「なんだよ、たった一週間のことで」

「…一週間だろうが俺たちには大変なんだ。一希なんか落ちこみが過ぎて幼稚園から連絡があったぐらいなんだぞ」

「利春とカズには悪かったと思ってるよっ。でもお前なんか、二年も帰ってこなかったじゃねぇか!!」

「…!」

 大久保は驚いて振りかえり、斎藤をみた。

 微かに潤む金色の瞳(め)。流石に疲れ果てたのが見て取れる白い頬は骨が少し浮き出ている。そして思い出した。

 あれはいつのことだったか。ニューヨークに着いて落ちついた頃、アドレスを教えておいた緋村からメールが入っていたのだ。

『こんにちは〜お元気でござるか? 拙者たちは変わりないでござる』

『…実はこのごろ、斎藤の元気がなくて…』

『どこがどうとかではなくて、拙者からみてなんとなく、でござるが…でも蒼紫もそう感じているし、間違い無いでござる』

 そして同じような内容のメールが川路からも届いた。仕事に差し障りが生じたわけではないが、捜査一課の雰囲気が妙に重たいという報告を受けたというのである。

 慌てて斎藤に国際電話をした大久保であった。

 真実は斎藤の声が教えてくれた。斎藤は自身の感情のコントロールが出来ないのではなく、表現するのが苦手なのだ。子持ちになってから益々その癖が大きくなって、自分の気持ちを奥へ押し込んでしまうようになった。そういえば話し上手ではないし、先へ先へと思考を伸ばす性質が災いして、いまの自分を置いてきぼりにして仕舞いがちである。

 それから大久保は、どんなに忙しくてもメールと電話を欠かさないことを誓ったのだ。

 そうまでして  …そうだな。たった七日間離れただけでこうだったのだ。その百倍以上をひとりで過ごした斎藤の 「…あんたがいるから、安心して仕事やってこれたのに…」

「斎藤」

「あんたがそんな顔したら、俺だって辛い…」

 利春を産んだこと。一希を産んだこと。二人を育てること。

 仕事を続けること。そして大久保と生きること。

 そのすべてを選んだことを、貴方が後悔させないで。

「……」

 斎藤は俯いて、また言葉を飲み込んでしまう。そんな斎藤を、大久保は悟った。

 近づいてそっと抱き締め、囁く。

「分かった。俺が悪かった。だからもう泣いてくれるな」

「…誰も泣いてなんか」

「だったら泣かせるまでだ」

「…っ」



「やれやれ…だ」

 利春は壁から背中を離した。不眠の気をもつ彼は、ふーふ(夫々)の対話がどう終了するかを聞き届けてからでないと安心できなかったらしい。

 浴室のなかでコトに及ぶのは近所迷惑だから止したほうがいいのだが、まぁ今夜は許してもらえると思う。思いつつ足音をたてないように注意しながら廊下を歩き出した。

「あ、まずいな」

 川路さんに長期休暇願い取り消すの忘れてた。

 子供部屋に向かうのをやめた利春は、そのままリビングに入って受話器を取り上げるのだった。